短編306.『オーバー阿佐ヶ谷』6
6.
バーのカウンター席に腰を下ろし、改めて握った拳を広げる。指の間には確かに縮れた数本の黒い毛が挟まっていた。カウンターに一本ずつ並べてみる。合計四本あった。
「チン毛っすか?」とカウンター越しに店主が言った。「そういうのカウンターに並べられると困るんすけど、衛生上」
私は曖昧に笑った。これが私の陰毛ではないと証明すふ手立てはないし、かといって怪物のものだと言えば、それこそ『チン毛を並べた挙句、意味不明なことを口走る狂人』に認定されてしまう。私はただまともな酒を飲みたかっただけだった。四本の黒い毛は財布にしまった。店主の眼差しが痛かった。
カウンターにグラスが置かれる。透き通ったそれは炭酸を含み、上品な泡立ちを醸し出していた。里ソー。里の曙ソーダ割。奄美大島が生んだ黒糖焼酎だが何故か阿佐ヶ谷のソウルドリンク(阿佐ヶ谷のどの居酒屋にも大体置いてある)になっている。ここは『ソルト・ピーナッツ』じゃない。焼酎を頼めばきちんと焼酎の味がする酒が届く。そんな当たり前が有り難かった。
私は里ソーを飲みながら、先程の怪物のことを思い返していた。黒い(月明かりによって銀色に光る)体毛、はじめ二足歩行でスピードを求めて四足歩行に変わる形態、歪に盛り上がった背中。
アレが人間ではないことは確かだった。『月刊ムー』にでも出てきそうな雪山の主のような出立ち。そんなものが大都会新宿も近い阿佐ヶ谷のこの地に生息しているとはとても信じ難かった。ーーーでも紛れもなく、私は怪物と遭遇したのだ。この目で見、この右手でその体毛の数本をむしった。そして、その体毛は今も私の財布の中にある。現物より他に信じられるものなどなかった。
「なぁ。夢を叶えるのに他力本願ってどう思う?」と私は店主に尋ねた。
「ダサいっすね、それ」と店主は言った。
「私もそう思うよ。乾杯」グラスを掲げた。
ーーーしかし、これほどまでに努力を重ねても私に栄光の扉は開かれないままだった。閉じられた扉は冷たく、分厚かった。ノックしても返事すらない。他力本願になるのも無理はないだろう。
怪物にすがりついて夢を叶えることは、やはり本道から外れることになるのだろうか。でも、この世の中にはプロデューサーに抱かれるアイドルもいれば、社長に尻の穴を貸す二枚目俳優だっている。最終地点が同じなら、その時取れる最大限の効率を求めてしまうのが人間なのではないだろうか。たとえ痛む穴をさすりながら飲む酒が如何に不味かろうと。
酒が進んだ。脳がそれを求めた。まともな酒はやはり美味い。銘柄どおりのアルコールが提供される世界線は健全だ。でも、私は明日も『ソルト・ピーナッツ』に足を運ぶのだろう。人間の退廃ぶりを眺めるのが我が仕事だからだ。
#阿佐ヶ谷 #飲み屋 #スターロード #小説 #短編小説
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