短編305.『オーバー阿佐ヶ谷』5
5.
「もし怪物に会ったのならーーー」男の声が蘇る。「ーーーすがりついてこう言え。『俺をここから救ってください』ってな」
ふむ。ーーー俺をここから救ってください、か。今の私にピッタリの台詞じゃないか。そのような想い、いつだって魂が叫んでいる。口に出すとしても、並の役者には負けないだけの迫力を伴って言えるだろう。少なくとも小劇場辺りでくすぶる役者風情には。実に簡単な話だ。
もし最悪、今目の前にいる背中が男の云う怪物でなかったとしても、単なる酔っ払いの戯言という形で収まりそうだ。シラフでやれば精神病棟は免れない案件だろうが、現に今こうして、おかげさまで良い感じに酔っている訳でもあるし。ーーー下戸じゃなくてよかった。心底、そう思った。
角を曲がった背中を追いかけた。自然と早足になる。なんだか気付かれてはいけないような気がしたので、出来るだけ足音は立てずに。その背中が近づいてくるにつれて、毛並みはよりはっきり見え始めた。月明かりに照らされ、銀色に輝いている。どうやら毛皮の服の類ではなく、皮膚から直に生えているように思える。ーーー間違いない。これが件の怪物だ(人間だとしたら大問題だ。毛の問題のみならず露出狂だ)。あとはこの怪物の前に回り込んでこう言えばいい。「俺をここから救ってくれ」と。
更に足を早めた途端、道端に突き出していたビールケースに躓き、大きな音が立ってしまった。クソッタレだ。きちんと収納しなかった居酒屋店員をレストインピースしてやりたい。静まり返った飲み屋街に響くその音は怪物の耳にも確かに届いたらしい。怪物の足も早まる。
「待ってくれよ」酒で腫れた咽喉は掠れた音を絞り出す。
声で制そうとした試みは無駄に終わった。今や怪物は四つ足に変わり、高架下をくぐり抜けて駆けていく。私は必死にその背中を追いかけた。今や目の前に現れた夢を掴むべく。
深夜の道路に私の走る足音だけが響く。怪物のそれは宙を駆るが如く無音だった。少しずつ距離が縮まる。火事場の馬鹿力とでもいうのか、人生史上一番のスピードを記録していると思う。目の端を溶けた景色が飛び去っていく。怪物の背中が目の前に迫る。私は手を伸ばし、その毛並みを掴んだ。
同時に怪物は後ろ足を使って飛び上がった。怪物の姿は大きな門扉の向こうに消えた。その先は釣り堀だった。閉められた門扉は私と私の夢を隔てる天の川だった。
赤の筆文字で『つり堀』と書かれた看板にもたれ、呼吸を整える。
ーーーいつだってこうだ。私は何も掴めない。指の隙間から全て零れ落ちていく。
いつのまにか月は雲に覆われていた。
*
指の間には数本の体毛が挟まっていた。月明かりに照らされていないと、まるで陰毛のように黒い。私は拳を握りしめた。夢の欠片を失くしてしまわないように。
もう一軒寄って帰ることにした。まともなラベルのまともな酒を飲みたかった。例えば、里の曙。ソーダ割。通称:里ソー。阿佐ヶ谷のソウルドリンクを。
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