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短編347.『オーバー阿佐ヶ谷』47

47.

 女のグラスは空になっていた。私は指摘した。紳士的かつ、左手の小指にはめたダイヤ入りの指輪をさりげなく見せつけながら。
「何飲む?」
 女は首を振った。
「最底辺の人間に奢られて喜ぶほど落ちぶれちゃいないわ。何をして稼いだかも分からないお金で」
「金は金だろ?」ーーー売れても売れなくても、私が私であるように。
「合法的に資金洗浄(マネーロンダリング)したいだけでしょう?他人を使って、音楽を使って。最悪に不純な動機」
「それは誤解だぜ」私が首を振る番だった。「成り上がるのは別の理由さ」
「じゃあなんで成り上がりたいの?成り上がってどうしたいの?」
「綺麗な女(ビューティフル・レイディー)が高いものを注文したとしても平然としていられる男で在りたいからね」
「案外、ちっちゃな”ゆめ”」
「で、何飲む?」
 女は白ワインをグラスで頼んだ。ーーー良かった。

 丸みを帯びたグラスに注がれた白ワイン。一杯五百円。それは山梨県へのささやかな献金となった。
 グラスを回し、香りを楽しみながら「売れる見込みもないのに、なんで続けていられるの?」と女は言った。”ビューティフル”という言葉の化学反応か、少しだけ上機嫌だった。やはり他言語は良い。褒めることに躊躇がいらない。
 ワイングラス越しに女を見つめる。往年のマーロン・ブランドみたいに。女のカールしたまつ毛は目蓋にぶっ刺さりそうなほど反り返っていた。ベッドインを待つ私の”悪党”みたいに。私は比喩を多用した。村上春樹みたいに。

「五十歳になった自分に絶望したくないからさ」
 ーーー四十が迫り来る壁のように目の前にあった。それは分厚く、堅牢で、冷たい。
「”何者”にもなれなかった五十歳なんて目も当てられないだろ?」
 ーーーあと十年やそこらでどこまで行けるのだろう。
「そして、そいつはこう言うのさ。『あぁ、あの時アレをやっとけば良かった』って」
 ーーー何をしても無反応なオーディエンス。不感症のマグロを相手にしてるみたいだ。
「禿げた頭と醜く突き出た下腹を抱えてな」
 ーーー私はいつだって深い井戸に向かって言葉を投げている。底にたどり着く前に宇宙遊泳。

 女は溜め息をついた。吐息、とは違って甘くもなく、切なげでもなかった。
「ラッパーのくせに言うことは割とまともなのね。マジョリティが言いそうな台詞そのままに」
 ーーーそうか。私の言葉はありきたりの平凡が故に誰も相手にしないのかもしれない。とはいえーーー。
「だからって言葉の価値が下がる訳じゃない。”何を言うか”より”誰が言うか”、だろ?」
「誰が言ってんの?」
「ーーー誰が言ってんだろう。俺は誰だ?」

          *

 私は立ち上がり、残り少なくなったグラスを掴んだ。女のワイングラスも空になっていた。そろそろ良い頃合いだった。酔い過ぎた”悪党”は”使えないボンクラ”を演じたがる。経験則がそう告げていた。今ならまだバッドガイそのままだった。
「で、セッションのことだけどーーー」私はグラスに残ったコークハイを飲み干した。「高架沿いに四階建ての良いスタジオがあるんだ。この後どう?名前は〈ホテル チェルシーミルク〉っていうんだけど」
「別に良いけど、この胸はシリコン製だよ?」女は自分の股の間を撫で上げた。「私の下半身は造花なの」
「造花。ーーーそうか。…Yo」
 ことの次第を理解した”悪党”は股の間で急速な収縮をみせた。縮小を続ける宇宙が如くに。
「いくじなし」と女は言った。「こっちの世界も体験してみたら良いのに」
 妖艶に笑う女は女より女だった。


          *

 カウンターの上方に備え付けられたテレビでは、”よく見知った女”が大御所俳優相手にたどたどしい演技をかましていた。ーーーまぁ元気であればそれでいい。

 私は自分の飲み代だけ置いて店を出た。



#阿佐ヶ谷  #飲み屋 #スターロード #シーシャ #小説 #短編小説

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