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短編302.『オーバー阿佐ヶ谷』2

2.

 店内には三人いた。カウンターの隅で潰れた男と私と、私の隣にもう一人。潰れている奴のことは知らない。ただ、よく見る顔だ、という以外に。

 私の隣にいるのは小劇場を主戦場とする(にしか出来ない、と言ってもいい)劇団の演出家だ。勿論、自称。くたびれた襟首のTシャツを着ている。前面のプリントは掠れ、かつてそこにはミッキーマウスがいたことが、微かに残る白い手袋から推察出来る。

「阿佐ヶ谷に住んで何年になる?」と演出家の男が言った。
「二年弱くらいですかね」
「じゃあ、あの”怪物”の話は聞いたことあるか?」
 男の目線は宙を泳いだ。何かを思い出しているのかもしれないし、それっぽく振る舞っているだけかもしれない。
「”怪物”なら毎日ここで見てますよ」
「ここにいるのは単なる夢の残骸だよ」と演出家の男は言った。Tシャツのミッキーマウス(の手袋)も同意している風だった。残された指先でサムズアップしていた。

 私は焼酎を飲んだ。いつも通り、ビールの味がした。男の話す”怪物”になど興味はなかった。ただ、男は話したそうだった。きっと話を聞いてくれる者もいないのだろう。中年過ぎた、誰からも相手にされない哀しき男の末路。明日は我が身だった。話を聞くことにした。

「中央線の呪いみたいなものが働いているんだろうな。特に中野・高円寺・阿佐ヶ谷あたり一帯には。一度住むと温かい泥沼に浸かったような心持ちで肩すら出したくなくなる。そうして気付いた時には頭のてっぺんまでズブズブだ」と男は言った。

 ーーーこの後、数分に渡って如何に中央線沿線が住みやすいか、についての講釈が行われたが、大して聞いてもいなかったので省略する。さて、本題だ。

「俺はこの町に住んでもう五十年近くになるけど、その間に両指くらいの人間が羽ばたいていった」演出家の男は指折り数えた。片方と一本でその動きは止まった。
「少ないっすね」
「で、羽ばたいていった人間達に共通するのは、その直前に『怪物を見た』と言ってまわってた、ってことだ」その口調は神託を授ける神官の厳かさだった。「『怪物を見た』と言った人間は次の日から、必ずこの店には寄り付かなくなる。で、あれよあれよという間にスターダムさ。雑誌やテレビに引っ張りだこになって、終いにはこの町からも出て行く」
 男は具体名を挙げた。それは私も知っている人間達だった。もしかすると離島に暮らすアナコンダにだって知られているかもしれない。勿論、この話に信憑性はない。何せここは場末の飲み屋の中でも最低クラスの店だ。話の九割方はデマかガセで、突拍子も無さ過ぎるが故に裏の取りようもない。

「その怪物というのは、いわゆる都市伝説みたいなもんですか?」ーーー信じるか信じないかはあなたの知性と教養次第の。
「いや、伝説みたいな話じゃない。実際に会った人間もいるって言ってるだろ」男は手に持ったグラスをカウンターに叩きつけた。高音ではなく、鈍い低音がした。割れはしなかったことから考えられるのは、この店のコップはガラスに見せかけたプラスチック製ということだ。きっとかつて経営が傾くほど割れに割れた時代でもあったのだろう。




#阿佐ヶ谷  #飲み屋 #スターロード #ソルトピーナッツ #小説 #短編小説

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