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短編301.『オーバー阿佐ヶ谷』1

1.

 阿佐ヶ谷スターロードのどん突きにあるバー『ソルト・ピーナッツ』で呑んでいる。縁が欠け、幾分汚れたグラスで酒を。

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 ちょうど住宅街と飲み屋街の境い目にある場末に空いた異界。はたまた中央・総武線で都心から戻り、ようやく家も近くなって気が緩んだところに待つ落とし穴。とはいえ、この店に来る客にサラリーマンやOLのような、まともな職業人はいない。サバンナに於いて自然と棲み分けがなされるような原理がこの街にも適用されているらしい。

 通りに面して開かれた一つの小さな窓。そこから中を覗けば、バー『ソルト・ピーナッツ』が自分にとって相応しい店なのかどうか分かるだろう。その窓を通して見える景色は十九世紀の阿片窟を連想させる。それが故なのか、大体に於いて人々は素通りするか、そもそも視界にも入れようとしなかった。

 掃き溜めに鶴、といった古語に期待してはいけない。掃き溜めには掃き溜めに相応しい落伍者がいるだけだ。もう誰からも引き上げられない腕を自ら掴むことで辛うじて生きているような人生の敗残者。”世間の目”からはとうにこぼれ落ちた透明人間。そのような者たち。

 もし世捨て人や”何か”から崩れた人間を見たければこの店に来るといい。きっと数冊の本が書け、何本かのドキュメンタリーを撮れることだろう。

 でも、【ミイラ取りがミイラになる】という話もある。近づく時は気をつけた方がいい。堕落は堕落を引き寄せる。その気がなくても足を掴まれ、ぬるま湯に引き込まれたらそれまでだ。怠惰に抗する程の力は人間には与えられていない。

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 ジャズトランペッター/ディジー・ガレスピーの名曲から取られたこの店名『ソルト・ピーナッツ』の名物はそのままソルトピーナッツだ。一度食べてみるといい。もう二度と他のピーナッツすら食えなくなる、トラウマ級の不味さだ。店名にまで冠したツマミがそのレベルでは他もお里が知れる。ピザはチーズが溶けておらず、ビーフジャーキーには黴が生えている。ホットドッグのソーセージは生煮えで、鮭とばはダイアモンドのような硬さを誇っている。

 いつ開封されたか分からない酒瓶から供される酒達は熟成とは別の空気感を纏っている。ウィスキーは日本酒の味がし、焼酎からはビールの香りがする。
 そんな酒に、ただ一つ言えることがあるとすれば”酔える”ということだけ。アルコールはアルコール。そこに嘘は無いらしい。

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 店の看板の下には【Since 1969】とある。1969。それはウッドストックやサマーオブソウルの年だ。そろそろ歴史書に綴られるような年代。火炎瓶や注射器が飛び交っていたような時代に産声を上げたこの店が何故、これほどまでの長きに渡って経営を続けていられるのかは誰も知らない。公衆衛生法を無視したツマミ類と表記から逸脱した味の酒を提供するこの店が。

 でもこの店で飲む者、いや、この店でしか飲めない者にとっては、そんなことにそもそも興味すらない。

 ただ店があって、そこに集う者がいる。資本主義の原初形態を保ちながら、そのバー『ソルト・ピーナッツ』は阿佐ヶ谷の片隅に今も存在している。




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