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短編271.『スマホと共に消えた記憶』

 電車内でスマホが無いことに気が付いた。普段入れているポケットにも鞄の中にも無かった。ーーーいや、そもそもどうやって改札を通り抜けたのだろうか。PASMOもSuicaも持っていない。通常、改札を通る時はスマホをかざしてことを済ませている。だとすると、改札まではスマホを持っていた、ということだろうか。それとも家のどこかに忘れてきたか。そうであった場合、どうやって改札をくぐったというのだろう。四十間近にもなって無意識に無賃乗車なんて笑えない。逮捕からの精神鑑定もあり得る事案だ。

 ーーーそれにしても。…記憶がない。

 家を出てから、今この瞬間までスマホに触った覚えがない。普段ならLINEの一通でも来そうなものだが、結局LINEが来たところでスマホ自体が無ければ気付くこともないのか。思考は堂々巡りの果てに焼き付いて燃え落ちた。

 スマホを落としたとしたらどうなるのだろう。拾った奴がこの世界の悪を凝縮したような極悪人であった場合、悪用されることも容易に考え得る。スマホ決済でソファとかを買われてしまうのかもしれない。三十六万円くらいのやつを。携帯会社に電話してスマートフォンを使用不可能にしてもらわなければならない。今すぐ。早急に。ーーースマホが無かった。

 最悪の時代に生きている。スマホを止める為にスマホが必要なんてまるで禅問答じゃないか。そもさん!せっぱ!助けて一休さん。

 その間も電車は止まることなく進んでいく。私の不安などお構いなしに。座席に座る人間達は皆、スマホをいじっていた。動画を見たり、ゲームをやったりしているんだろう。なんだか無性に腹立たしかった。大切なものを奪い取られたみたいに悔しかった。

「私だってスマホくらい持ってるんだぞ!」と叫び出したかった。叫べば即YouTubeにアップされるこの時代、それは控えることにした。

 車窓を流れゆく風景を眺める。普段ならスマホの小さな画面に釘付けになっており、沿線の風景なんて見ることもない。昔ながらのパン屋、紅葉、川のせせらぎ、古い鍼灸院の看板だって見つけた。少しだけ得をしたような気持ちになった。いや、気持ちをそういう風に仕向けただけなのかもしれない。なんの解決にもなってはいなかった。

 もう一度、朝起きた時からの記憶を辿ることにした。いつもスマホでセットしたアラームで起きーーー。今朝はアラームを聞いた覚えがない。どうりで清々しい朝だった訳だ。人はなにも好き好んであんな電子音で起きたい訳じゃない。目覚まし時計というモノはどこへ行ったのだろう。スマホは我々から多くのものを奪っていく。

 朝から無いのだとすれば、昨日の夜はどうだ。昨日の夜、一体私は何をしていたのだろう。ーーー昨日は一日家にいたし、スマホを触った記憶もない。家にいる時はパソコンでことを済ませてしまう癖がある。ーーーだからか。

 …ということは一昨日か?忙しい現代人にとって一昨日の記憶なんて一昨年と変わらない。何も思い出せなかった。

 私はいつからスマホを触っていないのだろう。




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