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悪女 ~霞へのプロローグ(女性目線)~   ②

何処までお話ししましたっけ?そうそう、彼の悩みね。彼が言うには、疲れて帰っても、ご両親と話しする時間は取らなきゃいけない。奥様も働いていているから、変に愚痴を言うと邪魔になる、だから口に出さず静かに胸にしまっておくしかない、ってですって。
『で、ご自分一人で抱え込んでらっしゃるんですね。』
『まぁ…そういうことになるけど、仕方ないよね。僕が自分で解決しなきゃならないことだから。』
『でも、そんなことを続けてらっしゃったら、あなたの体がもちませんよ。』
“あなた”。そう、彼の話を聞いているうちに心の距離が縮まったわけ。母性をくすぐられたのかそれとも以前から彼を憎からず思っていたのが影響したのかは…わかりませんけどね。え?お前ならわかっていたはずだ、ですって?ホホホ、それはご想像にお任せしますわ。

階段を下りて通りに出た時、
『ほんとに申し訳ない。君の苦労をねぎらうために呼び出したのに、僕の愚痴に好き合わせてしまって。』
『いいえ、こちらこそ私みたいな若輩者にお話ししてくださって感謝してます。』
『若輩者だなんて…君は本当に優しい女性だね。ますますファンになったよ。』
『ありがとうございます。お世辞でもそう言ってくださって嬉しいです。』
『いやお世辞なんかじゃない。その証拠にと言っては何だけど今度食事に付きあってもらえないかな?』
ほら来た!男が女性を誘うときに使う常套手段。褒めといて気を許させて毒牙にかける、みたいな?でもこのとき彼女は、彼の言葉に誠意を感じたの。本当に申し訳ないと言うね。だから再会の申し出を素直に受けたわ。

それから五日後、だったかしらね、彼が夕食を誘って来たの。教えられた住所を頼りに行くと、古ぼけたビルを中庭に向かって入った小さなイタリアンレストラン。ドアを開けると下駄箱、いや、シューラックがあり、靴を脱いで一段高い板張りの、いや、フローリングの…ほんと目の前の景色でさえ現代語に訳すのって難しいし面倒だわ!…とにかく、フローリングの店内に入るようになっているの。店内左手奥に掘りごたつ式のテーブルが二つ。カーテンで区切って個室感覚になるテーブル席と、壁の向こう側にカップル席。その手前、オープンキッチンを囲んでコの字型のカウンターに座った彼がこちらを見てほほえんでいる。
『お待たせしてすみません、会社出るのが遅くなっちゃって。』
『嘘が下手だね。本当は店が分かりづらかったんでしょ?ビルの前を行ったり来たりしたんじゃない?』
『えっ?ええ、実はそうなんです。まさかビルの中庭にはいって行くなんて思わなくて。』
『僕も最初は戸惑ったよ。ここら辺をぐるぐる回って、結局わからなくて店に電話をかけたんだ。』
自分だけじゃなかったことを聞いて、彼女一安心。

『ちょっと失礼します。』
そう言ってハンカチを取り出し、額とうなじの汗をぬぐっていると、
『ビールでいいよね?』
『いえ、ビール“が”いいです。喉がカラカラなんで。』
『かしこまりました、お嬢様。マスター、ビールを二つ。それから、コースを始めてもらえますか。』
マスターはその声でスタッフの女性に指示を出し、手際良くアンティパストを作り始めた。
『何時も一人で来る時は、この席に座るんだよ。料理する様子が全部見えるし、香りも届く、肉を焼く音も聞こえる。で、料理を口に入れて味わえば、五感すべてで楽しめるって訳。得した気分になれるでしょ?』
さも自慢げに彼が言ったわ。冷たいビールで乾杯し、コースを五感で楽しみながら食べ終え、マスターからの差し入れのチーズケーキをもらって。色々な話と美味しい料理ですっかり満たされた。

あ、こんなことばかり長々とお話してたら、日が暮れちゃうわね。ちょっと端折るわよ。
んんっっ!ペンを借りたお礼にケーキを持って来た時から、実は彼に興味が湧いていたのね。と言うのも、今まで周りにいなかったタイプの男性だったの。
それから一緒に仕事をする機会が増え、強引ではなく、優しくみんなを引っ張っていく姿に、リーダとして憧れていた。
いえ、恋をしてしまってたのね。こんな人が何時もそばにいてくれたら…そして、前回彼のことを〝あなた〟と呼んでから、明らかに彼女の思いが変わったの。彼の寂しさを埋めてあげたい、疲れた心を癒してあげたい。彼のためになるのだったら、自分ができることは何だってしてあげたい。…そんな気持ちがだんだん膨らんでいった。もちろん頭ではわかっていたわ、彼には帰る家がある、と。でも、心はどうしようもなかった。だって、好きになっちゃったんだもの。

大好きな父親の死から、男性と知らず知らず距離を置いていた。クラスの男の子とさえ話すのが億劫だったの。社会に出ると、〝とっつきにくい女性、可愛くない女性〟と言われるようになり、それを見返すように、いつも強い人間でいようと努めた。人前で決して弱音を吐かず、周りがやっかみや陰口を言おうが、自分のやり方で与えられた仕事は意地でもやり遂げる。でも、本当は誰かに支えてほしい、その人の胸で泣きたいと思っていたのよ。優しさに飢えていたのね。そんな時彼と出会って、ピンと張っていた心にほころびができた。そして、そのほころびに彼の優しい言葉が入り込んできて、抑えてきた感情が解き放された。自然の流れよね。その救世主は以前から心を寄せていた人。その人は、たまたま結婚している。だからと言って、一緒に楽しい時間を過ごすことは悪いことではないでしょ?もちろん、傍目だの世間体だのっていうのは分かるわよ。でもそんなことのために好きになる人を決めなければならないとしたら、本末転倒じゃない。会う人ごとにいちいち、あなたはこうですか、あーですか、なんてあれこれ質問なんて出きゃしない。人を好きになるのに理由も条件もいらないでしょ。それなのに、『世間一般では許されないことだから』って、感情を抑え込まなきゃいけないの?自分に嘘をついて生き続けていかなきゃならないの?そんなの人間じゃないわよ。感情があるからこそ毎日が楽しいし、嫌なことがあったって楽しさを糧に乗り越えられる訳じゃない。人を好きになってしまったら、なおさら。この人がいるから自分は生きている価値がある、生きる意味があるんだって思えるわ。愛情は、生きる糧となるし、生きていることの証なのよ。
愛する人とゆっくりと過ごし、同じ体験をし、語り合う。お互いの感動を共有し、いたわりながら生きていく人がいることこそ人生の喜びよ。あなたがそばにいてくれてホントによかった、と言ってもらえたら素敵じゃない。それなのに愛していながら、そばにいることを許されないなんて…あんまり、理不尽よ。

あ、ごめんなさい。私の変な理屈につき合わせて、時間が経っちゃったわね。続きをお話ししますわ。
自分の気持ちが抑えられなくなるといけないから、その後はディナーじゃなくてランチを何度か一緒にしたの。しばらく経ったランチの時、デザートの小さなブッシュドノエルを食べながら彼が言ったわ。
『実は…おひとりさま、になっちゃってね。』
『え、おひとりさまって…奥様は?』
彼の話によると、こう。あの日から、あ、初めて二人っきりで食事をした日からね、一週間くらい経って、奥様とお互いの仕事のこと、同居しているご両親のこと、をじっくり話し合ったんだそうなの。『あなたの体がもちませんよ』。彼女の言ったあの一言が後押しになったのかしらね。そしたら奥様、『両親と自分に気を使って苦しんでいるのなら、少しでも負担が減るように別々の道を歩きましょう。』っておっしゃって先月離婚したんですって。自己中なのか優しいのか分からないけど、とにかく気を使わなきゃいけない材料が一つ減ったってことね。それと同時にご両親にもお話しして、仕事の都合で帰宅時間が遅くなるから、と説得して別居することにしたらしいの。

その話を聞いて、彼女の心は大きく揺らいだわ。望んでいたことなのに、素直に喜べない。これからどういう態度で彼と接したらいいんだろう、って。彼も同じだったと思うわ。奥様と別れてすぐ彼女に気持ちを告白するのは軽率じゃないか。手っ取り早い相手だと軽く見られていた、と彼女が思うんじゃないか、って。なんとなく今までよりもお互いの距離が遠くなったような気がした。望んでいることは同じなのに、どちらも言いだせないでいたの。何を望んでいたかですって?ちょっと、あなた鈍いわねぇ。それわぁ…

あらいやだ、もうこんな時間!ごめんなさい。ちょっと行かなきゃいけないところがあるのよ。これから先、詳しくはウェブで、じゃなかった、小説“霞”で検索なさって。はぐらかしてる訳じゃないの。ほら、御覧の通り私って素敵でしょう?だから悪女交流会の会長をしてるの。ホホホ…あ、こうしちゃいられない。みなさん、詳しくは“霞”でお話ししますわ。ごめんあそばせ。」

立ち去りかけて、こちらを振り向いた。
「二人がどうなったか知りたいわよね~ぇ。じゃあ、“霞”においでになってね。ホホホ。私ってくどいわねぇ。でもいい女でしょ?ホホホ…」
 甲高い笑い声が、先程のように辺りにこだましながら昇っていく。
「“霞”よぉ!ホホホ…」

 またあの周期的な音だけが聞こえてる。
                                続