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おじさんの海外向けのマニアックな音楽活動日記|おじさんの昔話(番外編)

どうも、プロミュージシャンからサラリーマンに~そしてうつ病でニートになり、
うつ病から復活後は、バイト生活をしながらネット上で海外向けの独立系音楽家として活動をしている還暦目前のオジさんです。
このnoteでは、日々の活動の事や今感じている事・考えている事などを記事にしております。

つい先日、昔の写真を整理していたら、僕の若かりし頃の「恥ずかしい」写真がバラバラと出てきまして、どうしたもんかと。
いや、別に悩む必要はないんだけど、僕の拗れたサービス精神がむくむくと湧き上がってきまして、この写真達をまたそっとしまうのではなく、活用してみようと。

僕は音楽家だから、そんな売れない芸人みたいなせこいサービス精神なんか出さなきゃいいんだけど、基本小物ですから、小物なりの意地を張っておかなきゃいかん!と。
自分でも何をいってるのか分かりませんが、とにかく、その写真をネタに、ちょっと昔話をしてみようかなと思った次第であります。

高校一年生の頃

横浜のポパイという場所でのライブ

うわー・・・見た瞬間破り捨てようかと思った写真w
確か16歳ぐらいかな?
この頃の僕はハードロックギター小僧で、ギターの事しか考えてない猿状態のお子様だったんですが、小学校の時の同級生に誘われてキャロルのコピーバンドの手伝いをした事があって、どうせ手伝うならとそれっぽいカッコでライブに出た事があったんです。
それまではキャロルとかあんまり聴いてなかったんだけど、結構楽しかった記憶があります。
革ジャンは確かアメ横で買ったのかな?
この後、僕はメタルやパンクなど基本的に洋楽ばっかり聴いて、それらのマネをしてイキっていたわけですが、10代後半に聴いて衝撃を受けた坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」で作曲とサウンドデザインに目覚めて本格的に音楽を作るようになっていくんですね。
その頃は、家を出て家賃2万5千円のアパートで一人暮らしを始めた頃で、ヘーベルハウスの作業員のバイトをいつつ週末にバンドの練習に励むという毎日でした。

20代の頃

実家に戻ってBGM制作をしていた頃

これは自宅録音にハマって、それが高じてBGM制作なんかの仕事をフリーでやっていた頃。
20代前半ぐらいでしょうか。10代後半に一人暮らしをはじめたけど、機材購入の為に一旦実家に戻ってきてしばらくたった頃の写真。
当時は今みたいにパソコンでなんでもできる時代じゃなくて、パソコンでシーケンスを組んでシンセやサンプラー、リズムマシンなどを同期させてテープに録音するしか無かった時代。
シンセも録音機材も高価で、必死にバイトをして長期ローンを組んで楽器を買ってましたねー。(常に金欠でした)
で、バンド活動なんかも色々とやってて、打ち込みを主体としたユニットなどを組んだりしてた頃の写真がこれ。

なんだ!その前髪わ!

はい、酔ってますね。自分に酔ってるのが見え見えでなんかムカつく写真ですねw
これはアー写用に撮った写真。この頃は、女性ボーカルのユニットを組んでたんだけど、あまりパッとせず自然消滅。
この頃はちょうどDCブランドが流行ってた頃かな?
記憶が定かではないんだけど、横浜のビブレのメンズ売り場で洋服の販売員のバイトをしていた頃だと思う。
その後に、横浜元町に店舗があったロンドンのデザイナーズブランド「ジョセフトリコ」の販売員のバイトをしていて(いわゆるハウスマヌカン。知らないかw)、そのバイトがきっかけでファッションショーの音楽制作とイベントのライブなどをやった頃がありました。

ファッションショーでのライブの時の写真

この頃から、結構尖った感じのマニアックな音楽を作っていたんですが、活動しているとバンドから勧誘されることも多く、当時は音楽性が多少違ってもなんだか面白そうだったらホイホイ引き受けてしまったりして、気がつくととんでもない方向にいってたりしました。

とんでもない方向にいってた時の写真

なんというか・・・言葉では表せられないですねw
これはB'zとソフトバレーとビリー・アイドルが混ざったようなバンドで、誘われて入った割には作曲の中枢は僕が担当していました。
ボーカル、ギター、ベースにキーボード(僕)という編成で、最初の頃はドラムがいなかったのでリズムは打ち込み。パッドを用意してシンセを弾く合間にパッドを叩いたりしてましたね。
その後ドラムも加入してしばらくは横浜を中心にライブをやっておりましたが、結局自然消滅。
ギターはバリバリのメタルギタリストだったんで、その後メタルバンドでデビュー。ベースはビジュアル系の武道館ライブまでするようになるバンドでデビューしてました。

その後、しばらく迷走。

迷走してた時の僕。まるで売れないお笑い芸人w

20代後半〜30代

クラブ24でのDJ

色々と迷走し、いろんなバンドを組んでは解散や自然消滅を繰り返した後、贔屓にしてもらっていた横浜のクラブ24というライブハウスの伝手でクラブジャズユニットに参加して活動をするようになり、この頃からジャズを中心としたDJもやるようになりました。
そしてそのユニットで日本コロムビアからデビューし、その後にドイツの99レコーズからCDをリリース。そのCDがきっかけでスイスのジャズフェスティバルに呼ばれライブとDJをやる事に。

CD発売記念で渋谷HMVでインストアライブした時の写真
スイスのイベントでのDJプレイ時の写真

この後、僕はユニットを脱退して、またもや迷走期間に。
音楽は作ってはいたけど、全くうだつが上がらず。生活の為にレコーディングエンジニアの仕事を貰っていました。

レコーディングエンジニア時代

結局エンジニアも長続きせず、サラリーマンに転身してブラック企業というものをこの後経験。

サラリーマン時代の僕

この頃は音楽は辞めて、仕事に専念してたんですが、なんかこう心の奥のモヤモヤしたものが拭いきれなくて、後になってそれは音楽の道への渇望だったと気がついた訳なんですが、暫くサラリーマンを続けた結果うつ病になりニート生活をしておりました。
ただ、その期間、実は母親の介護をずっとしていて、しかも2度の離婚w
なんだか波瀾万丈な人生だなーといつも思ってましたねー。

そして今

で、今はバイトをしながら音楽制作に復帰し、自分のやりたい音楽を自由に作ってます。生活は苦しいけど、今の奥さん(3度目の結婚w)とたまに趣味のキャンプにいったりしながら楽しく暮らしております。

キャンプではしゃぐおじさん

人生山あり谷ありなわけでありまして、ここでは書けないような修羅場をなん度も経験してきましたが、人生なんとかなるものです。
要は楽しく生きられればいいんじゃないでしょうか。お金には今でも苦労しているけど、楽しいことをやってるんで、全くネガティブには考えてないんです。
(奥さんにもうちょっと楽させたいなぁという思いは強いけど)
そう、お金に苦労したことで一ついいことがありました。
それは金銭の価値観がガラリと変わったこと。
金銭というか、生活水準に対しての幻想がなくなったというか。うまく説明できないけど、余計な世間体とか義理の付き合いとか無駄なもの一歳カットした方が楽だしお金も余計にかからないということ。
今は倹約系ミニマリストというスタンスで、肩を張らずに気軽に生活しています。

と、昔の写真きっかけで記事を書いてみたわけですが、全くまとまりもないまま、このへんにしときますw(もう眠いんでw)

では、また!



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