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建築と私 第1回「小学生が建築に感動する」

1.はじめに

私自身は建築家ではないし、建築を学んだこともなければ建築関係の仕事に就いているわけでもない。
だが、「建築を見る」ということが好きである。「一般人の建築ファン」といったところか。
街を歩いていて心惹かれる建築があればつい立ち止まって見てしまうし、旅先で「建築見学ツアー」などが催されていたら時間が許す限り参加するようにしている。

さて先日、ロンロ・ボナペティさんが以下のような投稿をされていた。

「だれもが建築を題材に創作をはじめ、つくり続けられるようにする」という願いを実現するため、ロンロさんが一緒にコンテンツを考えてくださるという。
この投稿を読んで、一人の建築ファンとして「自分も何かしてみたい」と思い、恥をしのんで連絡させていただいた。

今回の投稿は、その後のロンロさんとのやりとりから生まれたものだ。これから不定期で、「建築と私」と題したエッセイのようなものを投稿していければと考えている。

2.建築との「出会い」

第1回である今回は、そもそもなぜ私が建築に興味を持つに至ったのかという「出会い」に焦点を当てたい(と言っても記憶ベースなので、誤りがあるかもしれないが…)。

私が「建築」というものを意識するようになったきっかけについて想いを馳せてみると、ある出来事に思い至る。それは今から遡ること20年余り、小学生の時に友人たちと東京・小金井市にある「江戸東京たてもの園」に遊びに行ったことだ。
「江戸東京たてもの園」とは、都立小金井公園の中にある広大な敷地をもった屋外ミュージアムで、歴史的価値のある建物を移築・保存した上で公開しているところだ。

なぜそこに遊びに行くことになったのかという経緯までは覚えていないが、おそらく当時住んでいたところから適度に近かったことも関係していただろう。

ともあれそこで、私は建築と「出会う」こととなる。

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【ちょっと寄り道】
江戸東京たてもの園の良いところは、建物の中に実際に入り、隅々まで見学できるところ(たしか、立入禁止区域はほとんどなかったと思う)。
中に入って床を踏み、空気を吸うことで、かつてそこに確かに人が住み、暮らしたということを実感できるのだ。

・まず遠くから見て、全体を味わう。近づくに従い見えてくる部分に目をやり、中に入って細部の意匠に目を凝らす。
・設計した建築家が何を思い、そこで何を実現しようとしたのかを考える。
・(歴史的な建築の場合は)そこに生きた人々に想いを馳せる。

今の私が建築を見る時の基礎は、ここで確立したと思っている。

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3.建築に感動する

江戸東京たてもの園には、大小様々な建築が存在している。

ニ・ニ六事件の舞台となった高橋是清の邸宅、広大かつ豪華絢爛な第11代三井家当主である三井八郎右衞門氏の邸宅など、これまで目にしたこともない重厚な造りの邸宅に驚いた。

一方、前川國男による自邸や、堀口捨己による小出邸など、建築家が自らの理想や主張を形にした作品には、彼らのアーティスト性を垣間見た気がして、感動を覚えた。

例えば、前川國男邸のことを取り上げてみたい。

小学生なので当然、前川國男という方のことは知らなかった。ただ、名前を知らなくても、その建築は確かに私の心に深い印象を残した。

まず、その全体の形。大きな三角形の屋根がどっしりと掛かり、いかにも「家」といったフォルムに子供ながら何か「安心感」のようなものを感じたのを覚えている。
そして、その造りも面白いと思った。意外と狭い玄関で靴を脱ぎ、やや薄暗く細い廊下をグルグルと回っていくと、一面ガラス張りで光が燦々と降り注ぐリビングに出る。なんだか遊園地のアトラクションにでも来たような気持ちになったものだ。

買い求めたパンフレットには、「戦時下で物資が不足していたため、真ん中の丸柱には電柱を使用した」と書かれていた。様々な制約の中、工夫しながら自分の理想の建築を形にする「建築家」という職業は格好いいな、と思った。
数学が苦手だったので残念ながら建築系の学部には進めなかったが、哲学を学びながらもどこかで、建築のことを考えていたような気がする。だからこそ、実際に自分が建築を作ることはできなくても、建築家という職業を尊敬し、建築を愛してきたのだと感じている。

一般人でも建築に関する様々な文章が読めて、その気になればイベントなどで実際に中の様子を見ることができる。そんな時代で、本当に良かった。

4.おわりに

今回は初回ということで、私と建築の「出会い」について書いた。実は数年前、久しぶりに江戸東京たてもの園を訪れたのだが、当然のようにあの時の興奮が甦ってきた。
あれ以来、例えば前川國男や堀口捨己について多少なりとも知識が増えたが、それでもやはり、作品を前にしてシンプルに心が踊った。原体験の持つ力は強いのだ。

さて、繰り返しになるが、今回の記事はロンロさんの多大なるお力添えによって成り立っている。この場をお借りして、改めてお礼を申し上げたい。建築の素人である私に様々なアイデアをくださり、優しくサポートしてくださった。

ロンロさんとは、ブレインストーミングのような形で、取り扱うテーマについてやりとりをさせていただいた。
「それぞれの建築家らしさ」ということについて考えてみたい、という私の思いつきに対しては、「建築の分野と、建築以外の分野での『その作家らしさ』のあり方を比較しては」とご提案いただいた。その上で、哲学・言葉に関心があるという私の興味に着目して、「言葉と建築」というテーマも提案してくださった。それぞれのテーマは、時間はかかるだろうが、いつか必ず記事にしたいと考えている。

とっかかりとしてはどんなテーマがいいかな、と考えていたところ、「『建築を好きな人がどんなきっかけで、どんなところに惹かれて好きになったのか』というケーススタディ」というテーマを挙げていただいた。「それなら書けるかも」と思い、記憶を辿るうちに、今回の記事に至った次第だ。
執筆の段階でも、「建築の見方について、どんなところに惹かれたのか言語化してみてほしい」など、どうすればコンテンツとして面白いものになるか、率直なご意見をいただけた。

実は普段、私は雑誌の編集者として、執筆者にコメントをさせていただく立場にある。いつもとは逆に、自分の書いたものについてコメントをしていただくのは、とても嬉しかった。まさに、二人三脚だ。
一人の建築ファンとして、「だれもが建築を題材に創作をはじめ、つくり続けられるようにする」というロンロさんの夢の実現にわずからながらでもお力になれたら、これほど嬉しいことはないのである。

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