数学的思考が苦手で長期集中が続かないぼくについて。

一時期、建築家になりたいと思った時期があった。都市を変えたいと思っていた。大学の絵画科を出たら、建築科の大学院に進むか学部の建築科に入り直すかしようと思ったこともあった。
だがぼくは数学的思考ができない。建築科の友人から、構造論の話や構造計算の話を聞くだけで(彼も構造計算の単位がなかなか取れず苦労していたが)、チンプンカンプンだった。
同じ理由で作曲家になることも諦めた。短3度とか長4度とか、和声法とか、よく分からなかった。中学生のころ、いまキーボードミュージシャンとして生活している3歳上の兄が、「コードを覚えればジャズピアノ弾けるよ」と教えてくれようとしたことがあった。父の妹は近所でピアノ教室をやっていて、ぼくら兄弟は幼いころから通わされていたからとりあえず鍵盤の上で指を動かすことはできたのだが、「コード」の理屈を論理的に説明しようとする(これはぼくら兄弟の共通したくせだ)その説明が頭に入らなかった。
兄がキーボードプレイヤーになるには、ぼくと違う理由があったと思う。中学時代から家にあったグランドピアノ(叔母がピアノ教室を始めるときに、当時羽振りの良かった父が買ってあげたものが古くなり、わが家に戻ってきた小さめのグランド)で、彼は連日早朝からエルトン・ジョンをコピーしピアノを弾きながら声を張り上げ、ぼくはそれで目を覚ました。
兄の長期に渡る集中力と熱中は、いま考えてもぼくには真似できない。ぼくは長期間にわたってひとつのことに集中ができないのだ。つまりすぐ熱中するがすぐ冷める。集中力がないわけではない。短期的な集中力は人一倍ある方だとは思う。だが長続きしないのだ。音楽をやっている人を見ると好きと同時に集中力を継続させる才能があるように思う。

大人になって社会に出るといろんな人と接する。ぼくは形状認識や視覚記憶が苦手な人を理解できない。空間把握や色彩感覚に難がありそうな人を見ると「なんで、なんで、なんで?」と感じたりもしてしまう。
しかしこういったことは、すべて個人個人の特性。遺伝子によることもあるだろうし、たまたまつくられた脳の構造や回路にもよるし、もちろん生まれてからの経験や費やした時間にもよるだろう。

結局、数学的思考や長期的集中力に難があるぼくは、こうして美術やデザインやその周辺で生きているのかもしれないと、ラジオから流れる音楽にエネルギーをもらいながらふと考えた。

追記:
考えてみれば、現代につながる西洋クラシックの伝統的作曲技法に比べれば、ジャズやロックは自由で直感的だ。逆に絵を描くにも絵画組成や伝統的技法の知識、長期的集中は欠かせない。デザインをする際にあたっては色彩学や印刷の知識を動員しなければならない。さらにパソコンでデザインする時代になったら数学的思考も必要とされ、苦手なことも相手にしなければならなくなった。
…ああ。

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