劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンのNetflixでの配信が始まった。早速二度目の鑑賞を始めたのだが、1人で観てよかったと思うくらいには泣いてしまった。
本作の感想はいくらでもあるのだが、その一つ一つを文章に起こそうと思うとなかなかに難しい。感動とかエモーショナルだとか、そういったありふれた言葉で表現したくないと思う。表現してしまうとこの作品の与えてくれた素敵な感情を減衰させてしまうのでは無いかと思うからだ。だからと言ってそれらを適切に、かつ簡潔に表現する語彙も文章力も持ち合わせていないので、長ったらしい文章になってしまうかもしれないが、興味のあるところだけでも読んでいただけると幸いだ。



無駄になってしまうもの

今作で大きな存在感を示すのは「電話」だ。時代設定はどうやら現実世界とは対応していなさそうだが、急速に技術が進歩する時代はどの世界にも存在するのだろう。今作はおそらく第二次産業革命の真っ只中、電話や(作中でこそ描かれていないが)重化学工業、電気などの分野で急速な技術革新が起こった頃だろう。
当然、便利を追求して起こるこれらの発達に、手紙文化は取り残されてしまう。それも副次的に阻害されるわけではなく、「手紙を必要としないこと」こそが発展の目標なのだから、ある意味起こるべくして起こった淘汰なわけである。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンシリーズを追いかけてきた我々は手紙の素敵さも存在意義も、手紙だからこそ伝えられる愛も知っているが、とはいえ電話やメールに比べて不便な点は否定することができない。
否定する必要もない。
我々が魅力的に感じるのは手紙の不便さゆえではないだろうか。
すぐには届かないし、手書きだし、郵便屋の仕事も増える。紙だから嵩張るし、何より今どき手紙なんてなんだか恥ずかしい。
だが、そういう手間や不自由さ、無駄さに言い知れぬ魅力を感じるのは、きっとノスタルジックが理由だけではないはずだ。技術を遡れば遡るほど、人と人の直接の繋がりに近づいていくと思う。そういう観点で言うと手紙は極めて対話に近く、媒介するのは紙とインクのみである。ならば直接話せばいいではないかというのも、ならば電話でいいではないかというのも、尤もな指摘だ。
合理性だけでは説明のつかない数多くのことの一つが手紙だと思う。その奥ゆかしさや愛おしさをいちいち言語化することすらナンセンスである。
技術の進歩は極めて合理的で、マクロな視点で見れば我々人類は必然とも言えるような発展を道を辿っている。だが、ミクロな視点で、個人を見つめた時、理に叶わないことが大きな意味を持つことはきっとある。今作の電話が「ノスタルジーを侵害する機械」だけにとどまらない描き方であったことに感動した。技術は技術で、あっていいのだ。手紙が旧世代の産物で、埃を被った文化であっても、それと最新の技術をわざわざ対比することはない。それぞれがそれぞれに適した場面で使われれば、きっと社会も生活も豊かになるのだ。「いけ好かない」技術が急速に進歩を続けようと、それらを批判的に見なくていい。悲観的にならなくていい。美しい文化は美しいままそこにあるのだから。

思うようには動かない

ディートフリート大佐の言葉が強く心に残っている

皆、簡単には素直になれないものだな

物語の終盤の重要な場面で出てくる台詞だ。アニメの世界のみならず、人間の本質的な部分だと思う。ヴァイオレットとギルベルトも、皆素直になりたいからといって素直になれるわけではないのだ。誰かを想ったり、傷つきたくなかったり、あるいは傷つけたくなかったり、愛しているからこそ愛していると伝えるのが怖かったり。人の心というのはどんな機械よりも複雑で、それに触れれば触れるほど柔らかくなるヴァイオレットもまた、複雑な自らの胸の内に葛藤する。
そんな彼らの素直な気持ちを伝える方法の一つが手紙なのだと思う。何かを媒介することで素直になれることはある。
ディートフリートがこの台詞を言うことにも大きな意味があったと思う。弟にはもちろん、ヴァイオレットにも父にも、きっと素直になれないことが多かったと思う。それの難しさも、それがどれだけ大きな後悔を残すのかも痛いほど知っている人物だろう。自らが未だ素直になりきれないことにも、その度に反省するほどだ。だから彼は、ギルベルトとヴァイオレットを繋ぐように動くし、ギルベルトを解放する。贖罪の意味も込めて、ギルベルトの背負ってきたブーゲンビリア家の次男としての重荷を下ろす。
ギルベルトもまた、罪の意識を抱え続けてきた人の1人だ。ホッジンズの言葉を借りるなら「燃えていた」のだ。海を背に自由になれと諭され、海に向かって走る。炎を消すために。そして2人は海で再会を果たす。それはまるで、2人の背負った業火が海の水で消え、瑞々しく生まれ変わったかのように。とてつもなく美しい水の作画とともに強烈に心を揺さぶられるシーンだ。

苦しみと戦争

今作の脚本を手がけた吉田玲子さんが脚本を執筆したアニメ『平家物語』でも大きなテーマとして「苦しみ」があった。
今作における苦しみは「死」と「戦争」だと思う。
ユリスの死に涙した人は多いと思う。最初から示唆はされていたし、いずれ死ぬのだとわかってはいた。だがやはりそこに横たわる死、その苦しみから我々は逃れることはできなかった。必ずやってくるものなのだ。苦しみというのは、宗教観にもよるが仏教では「生きていることそのものが苦行」であり、キリスト教においては「慰めを得るための背負わねばならない十字架」である(多分雑な解釈ではある)。
戦争も避けては通れないテーマであり。これも大きな苦しみを我々に与える。現在進行形で起きている侵略にも向き合う必要がある。作中の戦争はおそらく第一次世界大戦と対応しており、各国列強の利害が絡み合った結果起きた、侵略戦争であり民族間の紛争の意味合いもあったと思う。今起きているのは、これらとは違う一方的な侵略であると思う。だから簡単に同一視して論じるのは極めて危険であり、ロシアが被害者であるかのような理論が展開されかねない。
作中でエカルテ島の老人がこう語る

戦えば豊かになる。皆そう思うとった。ライデンシャフトリヒのやつらが憎いと思うとったよ。じゃが…皆傷ついとったんじゃ

戦争における苦しみはまさにこれだ。憎しみに駆られ、武器を持ち、大義名分を振り翳して戦った後にふと周りを見渡すと、皆傷だらけになっている。自分達は豊かになれると思ったのに。
僕は幸運にも戦争を経験していない(戦争に参加することを経験するというのであれば)。遠い東欧で起きてる凄惨で無慈悲な出来事に心を痛めても、実際僕の何かが奪われたりはしていない。だから戦争を語るのは少し偉そうかもしれない。だけど、考えることくらいはしたい。
死の持つ大きな苦しみを考えると、それらを生み出し続ける戦争がいかに罪深いことかは想像に難くない。厄介なのは、敵国という分かりやすい目標が設定されている点だ。自然災害であれば憎しみのぶつけようがないが、戦争は容易に誰かを傷つけられる。それが戦時中にすべきことなのだから。戦争を始めた人は悪魔に違いないと強く感じる。
憎しみは互いにぶつけない、反射しながら増幅していく。残るのは傷だらけの国と人々だけだ。
我々は戦争と如何に向き合うべきだのだろうか。老人はきっと答えを知っている。我々も知っているはずなのだ。
僕は「互いに赦し合うこと」だと思う。目も眩まんばかりの綺麗事だ。だけど、それしかないことはきっと皆分かっているはずだ。あまりにも高尚で気高くて、目を逸らしてしまっているのだと思う。出来るはずがない、と。でも我々はそうやって前を向くしかないのだ。
死のようなやり場のない悲しみもやるせなさも、詰まるところ前を向くことが最善の解決策なのだとこのアニメは教えてくれる。
我々が非合理的な生物なことは前述の通りで、それの良い側面もあれば本節で書いたような大きな負の側面も存在する。それすらも受け入れなければならないという点で、雄大な海を印象的に登場させることに京アニの強い意志を感じる。
死の苦しみも、戦争の残す大いなる痛みも、そうやって前を向くことで解決できる。我々はその優しさも美しさも持ち合わせていると信じている。どれだけ辛くても、時に過去を思い出して涙が出ても、それらと共に前を向いて歩むことが必要なのだ。

興味のあるトピックを読んでくれと言いつつ、一つ一つのトピックがやたら長いというとても不親切な記事になってしまった。だが、鑑賞後の思いのままに指を動かしたらこうなってしまっていたので、許してほしい。
愛してるについても思うところはたくさんあるのだが、今更それを言語化するのは不粋というか、この作品以上に上手く語ることはもはや不可能だと思う。それぞれの心の中で、それぞれの愛してるを噛みしめることがこの作品に対するある種の敬意だと思う。どう頑張っても負け惜しみのように聴こえてしまうが(もちろん僕の文章力のなさも一因ではあるが)、それについて敢えて書くことは控える。
アニメ映画をあまり観ない自分ではあるが、アニメ映画という括りのみならず、今まで鑑賞した創作物の中でもトップクラスに心を揺さぶられた本作。是非、恥ずかしさを忘れて愛する人と観てみては如何だろうか。

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