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天上天下唯我独尊

幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している。それが私の基本的考えである。 
-不幸論(中島義道)-

1.盲目であること

盲目であるとは文字通り見えないことである。
時に見えない、知らないでいることが幸せなのではないかと思うことがある。

知ってしまったから動けなくなる、知ってしまったから責任を感じるなど。

知らぬが仏というが当にそうである

私の中で人は4種類に分けられると考えている。
軸は二つだ
(自分or他者)軸、(盲目的or客観的)軸
・自分軸:自分のことのために自分の人生を使うことが最大の幸福
・他者軸:他人のことのために自分の人生を使うことが最大の幸福
・盲目的軸:猪突猛進(即行動)
・客観的軸:メタ認知(躊躇)

軸の掛け合わせで生まれるのが以下である
①自分軸×盲目的⇒自己中心的、傾奇(かぶき)者
②自分軸×客観的⇒優柔不断
③他者軸×客観的⇒傍観者
④他者軸×盲目的⇒お節介、偽善者

あくまでも極端な例でありグラデーションはあると思うがざっとこんな感じである。

自分はどれに当てはまるか、どの傾向があるかというのも一興である
ただ、ここで問いたいのは

どれが幸せかという問である

最近、①④の生き方が幸せなのかもしれないと思うときがある。

人生は自己満足であり、どんな生き方をしても同じ一生であれば自分の世界で盲目的に生きることの方が幸せなのではと感じることがある。
色々と知らないことが幸せだったりするのかもしれない。
つまり、盲目的に生きることが幸せなのではないかということである。

私は人のためにすることが自分のためにすることであり、それが自分の最大の幸せであるという性格である。
ただ、人のためにというのはサービス加熱社会では際限なく消費される。

サービスは無償である。ただ、街頭のポケットティッシュではない。サービスは心を収受することで完了する。
ただ、「おい!受け取れ」というのも違う。
心を送る行為の難しさは偽善と表裏一体である。なんと難しいのか。。
もういっそのこと自分の幸せのために傲慢に生きてしまえばよいのではないかと思いつつ、人のためにが自分のためになるのだと再認識し、ループするのである。とほほ。


2.天上天下唯我独尊

「天上天下唯我独尊」
釈迦が生まれた時、一手は天を指し、一手は地を指し、7歩進んで、四方を顧みて言ったといわれている自分より尊いものはないという意味の言葉がある。

釈迦は生まれた時には歩けたのか!という驚きや自分の子どもが人生のスタート地点で唯我独尊とか言って欲しくないなとかいうのはさておき

この言葉をどう捉えるか

傲慢であるというように捉えることも可能。
一方で、自分の命は一つの命として尊いものであるというように捉えることも可能である。


3.幸か不幸か

三つ子の魂百までと言うが自分の生まれ持った性格を変えることは難しい。
それゆえ苦しむことがある。
自分と違う他人を見て、特に、自分が籠の中の鳥であれば自由に飛ぶ鳥を見て妬むこともあるかもしれない。
籠にいた方が安全なのにあいつは馬鹿者だと自分を正当化することもあるかもしれない。

ただ、自分がどんな性格でどんな環境に置かれているのであれ自分や他人を否定する必要はない。幸か不幸かは捉え方次第だ。
私の好きな歌詞に
「ずるい奴らが笑う世界 そう言いながら物事が ゆっくりでもいい方に進むと信じ今日も 正しく生きようとする君は素敵だよ そんな自分を君も 愛してあげてよ」
というのものがある

天上天下唯我独尊
自分は生きているだけで唯一無二の尊い存在なのだと、そこだけは疑いなく盲目的になることは決して傲慢なことではないのだと盲目的に言いたい。
そこが全てのスタート地点である。

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