第四話 「城戸酒造の話」
透き通った水のような、淡い色をした酒を前にして、私はかしこまっている。隣では雄太が、物欲しそうな目で、その酒を見つめていた。中庭に生えている銀杏の葉が風に揺れて、縁側から今にも入ってきそうだ。そのカサカサとした、心地よい音を聞きながら、私は、グラスを持ち上げた。
「いただきます」
『神童』を一口いただく。その透明感のある味の奥底に、ほのかな、独特の香りに気づいた。その苦みが、どこか懐かしいような、そんな気がした、これはなんだろう、そうだ、木の味だ。木の味がする。
「いかがですか?」
幸男さんが、様子を伺い尋ねてくる。しかし、あまり余計なことを言うのも、失礼と思い、たった一言、私は言った。
「水みたいですね」
水みたいな日本酒がいいなら、水を飲めばいいではないかと思うのだが、そういうわけでもないらしい。しかし、私は、普段、どこかで飲んでいる日本酒の甘さが苦手ではあるが、この『神童』から、そのような嫌味は感じなかった。どうやら、本当に美味しい日本酒は、違うらしい。慌てて私は付け足した。
「すごく美味しいです」
「だろうよ」
雄太が横から口をはさんだ。
幸男さんが、笑っていると、そこに、社長夫婦が遅れてやってきた。幸男の息子である、貞治と、その妻である綾子である。私は丁寧に頭を下げ、顔を上げると、ふと、貞治と綾子が、私の顔を見るなり、絶句している。
「昌平さんだわ」
横にいた、妻の綾子が、貞治の代わりに言った。
「・・・そんなに似てますかねえ」
私は、少し恥ずかしいような気もしていた。父とはそれほど似ていないと思っていたが、毎日、あの銅像を拝んでいる人には、なんとなくわかるのか。
「はじめまして、沖田尚子と申します」
私は、二人に挨拶をすると、夫婦が、謙遜して頭を下げる。
「いかがでしたか?『神童』は?」
「はい、よくわかりませんけど、美味しいです、普段、あまり、お酒は飲まないので」
貞治が、驚いたように尋ねる。
「普段、召し上がらない?」
「はい、私も父も、お酒はあまり飲みませんし」
そういうと、城戸一家の人々が、怪訝そうに、顔を見合わせた。
「お飲みになってない?、昌平さんが?」
「ええ、まあ、酒を飲む父を、私は一度も見たことありません」
「・・・」
幸男さんが、寂しそうな顔をしているのを、私は見た。
綾子が、何やら漆主の箱のようなものをもってきており、傍らに置いてある。それを、貞治さんが、私に見せるように促した。
「これ、参考になるか、どうか」
貞治が箱を開ける。中から出てきたのは、古い蔵の写真である。蔵人たちが、必死に働く姿が映っている。その一枚の写真に、並ぶ大きな桶を前にして、集合写真がある。その一番前のど真ん中に、蔵の大人たちに羽交い絞めにされて、写っている二人の子供がいる。
「この右が、昌ちゃん、そして隣が、私です」
幸男さんが言った。
「二人とも、まだほんの子供でしたが、当時のことをよく覚えています」
幸男さんが、懐かしそうにその写真を見ながら、私に言った。
「さて、何からお話しましょうか。まず、尚子さんは、昌平さんのお父様、つまり、あなたのおじいさまの話は、聞いたことがありますか?」
「ああ、いえ」
祖父の話は、あまり聞いたことがない。私が生まれたころに、すでに亡くなっていたので、仏壇の上の遺影でしか、知らない。優し気な顔をしていたように思うが。
「そうですか、おじい様は、とても厳しい人でした。当時は私も同じように子供でしたので、よく叱られました、昔は、他の家の子供だって、大人は強く叱ったものです」
「今だと、問題ありますもんね」
雄太が笑いながら言う。
「そうですね、おじい様は、とにかく、気性の荒い方でした。癇癪持ちといいますか、すぐに手が出る。何かあるたびに、殴られていましたから、子供たちはいつもどこか痣だらけで、私たちも、あの家の子だけにはなりたくないと思ったものです」
「・・・」
知らなかった。祖父がそんなに暴れん坊だったなんて。
雄太がさも自分の家のことのように、幸男さんに尋ねた。
「子供たちっていうからには、やっぱり、兄弟がいっぱいいたんですか?」
「はい、7人ほど。昌平は、その3番目でした」
親戚が、そんなにたくさんいたのか。私はまるで知らなかった。父から、そんな話は聞いたことがない。父はいつだって、話さない。私は父のことを思い、少し腹立たしいような気持ちになっていた。
幸男さんが、話を続ける。
「その兄弟の間で、いつしか、うちの蔵に忍びこむのが、恰好の遊びになったそうです。なにせ、蔵は人がいない夜なんかは、暗くて、怖いですから。肝試しにもってこいです。それに、蔵は当時は、蔵の男たちしか入ってはいけない、しきたりがありましたから、見つかったら、とんでもないことです。蔵には神様がいると言われておりますから、昔は、女性は特に穢れがあると言って、入ることさえできませんでした。そんな中、昌平は、よく兄弟に騙されたり、馬鹿にされたりしていたようで、その日も、遊び半分で、蔵に行くように命じられていました。そして、昌平が蔵へ忍びこむと、いつもより奥まで入ったのでしょうか。あろうことか、広い蔵の中で迷子になりました。兄弟たちは、昌平だけ蔵に行かせて、あと自分たちは、面白がって逃げたのです」
「ひどいですね・・・」
「まあ、子供のすることですし、今と違って、他に遊ぶようなことがありませんから。で、昌平がいつまでたっても家に帰ってこない、沖田家は大騒ぎです。昌平を蔵へ行かせた兄弟たちは、青ざめ、致しかたなく、例の癇癪持ちのおじい様に言うと、こっぴどく叱られ、殴られ、そして、昌平を捜索するために、夜、明かりを持った男たちが、蔵へ入り、昌平を探しに入りました。けれど、どこへ行ってもいないんです。おかしい、そう思った男たちが、そこで、ドボン!という、大きな音を聞きました。いたぞ!いたぞ!と騒ぎ、その音の先を追いかけると、そこは、なんと、桶の中でした」
「え」
雄太が一声あげた。
「まさか」
私も思わず笑ってしまう。
「そう、酒の桶の中で、溺れてたんです」
「・・・いや、嘘でしょ」
「そう思っても仕方がない。でもたしかにお酒ですから、匂いにつられて、桶に顔をのぞかせると、そのアルコールの成分で、ふっと意識が飛んだわけです」
「信じられない!」
雄太が笑った。
「みなですぐに助け出し、一命はとりとめました。その後、昌平はひどく怒られましたが、もはや謝って済む問題でありません。だって、桶に子供が入ったのですから、その桶はもうダメです。廃棄処分となります。もちろん蔵は大損害です。怒った城戸酒造は、沖田家に、それなりの賠償を求めます。まあ、昔ですから、今のように、保険などありませんし、桶が一つ分の金額は、それはもう、とんでもなく高価なものでした」
「それで、どうしたんですか?」
「はい、おじい様が、昌平を勘当して、城戸酒造へ下働きに出したんです」
「え!」
「でも、八歳でしょ?」
「そんな金はありませんから、言ってみれば、昌平は売られたのです」
耳を疑うような話だ。祖父の性格を疑う。それを聞いた雄太が、信じられないといったような、苦い顔をしている。
「可哀そうな話・・・」
しかし、これは、本当に父のことなのだろうか、話を聞きながら、混乱してくる。今まさに、家では、掘り炬燵に足を突っ込んで、いびきをかいて眠っているかもしれない、その父の姿を想像すると、まったく別人のようにも思えるが・・。
「まあ、当時は、学校に行けず、すぐ働きにでる子供なんて、それほど珍しいことでもありません。ですが、あろうことか、その時、昌平はそれを喜んで受け入れました。不思議と、昌平は、蔵へまた入れることのほうが、嬉しかったのです。そして、そのあと昌平が言った一言が、蔵の皆を驚かせます。何と言ったかわかりますか?」
私と雄太は顔を見合わせた。
「木の味がする」
そう言ったんです。
酒を持つ手が震えた。
私は思った。
これは、紛れもない父の話だ。
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