ドラマ「MIU404」が緻密に浮き上がらせた、生きるという選択。
金曜22時。リズミカルなイントロと共に、「MIU404」の文字が画面で跳ねる。最終回が楽しみで仕方なく、10分も早くテレビ前で待機したのはいつぶりだろう。
機動捜査隊、通称”機捜”の隊員たちが事件を追い、繰り広げられていく物語。よくある警察モノを、星野源と綾野剛パワーがどれくらい昇華できるんでしょうね〜と、始まる前はいささか失礼なことを考えていた。
でも、最終回を見終えた今思う。この”機捜”という設定は、あくまで全11話で紡がれたメッセージのきっかけにしか過ぎなかったと。
それほどまでに、物語の舞台から遠く、遠くにいると思っていた自分の心根を包んでくれるドラマだった。
最近、かの池上彰さんの「おとなの教養」を読んで、スカスカな頭ががん、と殴られるような事実を知った。
日本に生まれたからと言い訳をしてはいけないが、宗教についてはとことん無知。仏教というもっとも身近な宗教が、「生」を「苦しみ」と結論づけていたことを知らなかった。
本来はもっと深い解釈があるのかもしれないが、少なからず池上さんがこれ即ちと仰っているのだから一旦信じてみるとして、とにかくあまりにも衝撃的だった。
仕事は相も変わらず忙しく、どうにか自分の時間も大事にし、しあわせのような何かを追い求めて必死に「生」を全うしようと張り詰めていた気が、その本を読んでからというもの、じわじわ萎んでいるのを自覚し始めた。池上さん、後からじわじわ効いてくるタイプのボディブローでした。
そんな感じで、1〜2ヶ月くらいずっと「解脱したい・・・」と思っていた。だからこそ、MIU404で星野源演じる志摩からこの言葉が出たとき、心拍数がガンと上がった。
ああ、MIU404が紡いだメッセージの真髄はこれか、と。
警察という組織は、世間に認められる正しさは、どうしても「生」を肯定し「死」を否定しなければならない。ただ、MIU404というドラマの中で、志摩や伊吹は「生きることは苦しい」と私たちを抱きしめてくれる。
”機捜” ”警察”という生死と隣り合わせの舞台だからこそ、苦しみの輪郭はよりくっきりとする。だからこそ、彼らの言葉がより胸を打つ。ただ、意識することが少ないだけで、生死はいつも私たちの周りに淡く存在している。
「生」とは選択することだ。生きている限り、欲を持ってしまう。何かを選ぶとはそういうことで、何かを選ばないのもそういうことだ。制御できないから、苦しい。その苦しみを和らげるためなのかは分からないが、私たちはいつも選択の理由を探して、あるいはこじつけている。理由なんて、美しいものばかりじゃないのに。
菅田将暉演じるクズミも、彼の選択で生きていた。まるでドーナツの穴のようにぽっかりと、あるようでないような、生きていないような存在として。それはもしかすると、生の苦しみから逃れたいというもっとも絶望的な欲との戦いであり、選択だったのかもしれない。
答えなんてないのに、またこうして自慰的に理由を探してしまう自分に反吐が出るけれど。
生きることは苦しい。ただその苦しみは一人で背負い切れない。人は、さまざまな形で関係し合い、苦しみを背負い合い、選択を促し合う。
「生きて、俺たちとここで苦しめ。」
志摩と伊吹はそんな人間たる象徴として存在し、この言葉をのこしてくれた。救われた人は、案外多いんじゃなかろうか。
冒頭で書いたとおり、警察モノという設定はあくまできっかけだ。そのきっかけを最大限に活用して生の苦しみを浮き上がらせ、提示し、そして肯定するさまは本当に見事で、鮮やかだった。
志摩と伊吹に苦しみを背負ってもらい、ひっそりと泣く金曜日が終わった。
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