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第七回「脚本の翻訳」~創作ノート~TARRYTOWNが上演されるまで

こんにちは!TARRYTOWN翻訳・訳詞・演出の中原和樹です。

とうとう上演権を獲得し、やっと台本・楽譜がきた!というところまで前回の創作ノートで書いてきましたが、
今回は台本を翻訳するという作業にスポットをあてて記事を書いていこうと思います。

※あくまで私の観点での作業プロセスなので、これが正解!であったり、こうした方がいいよ!という記事ではないことをご了承ください~。
中原はこんな考えでやっているんだなぁ、ふむふむぐらいに思っていただければ・・・・。


台本を読む

当たり前ですね。笑

最初は、何も考えずに、かつ分からない英単語や表現は調べずに読みます。物語の流れというか、大きな枠組を感じ取ることを大事にして読む、という感じです。

これは私の場合日本語台本でも同じなのですが、途中で調べものを挟むと、感じ取っている「流れ」のようなものが澱んでしまう感触になるのです。

最初に台本を通して読むときのわくわくやどきどきは何にも代えがたいです・・・!
ぶわーっと目の前に大きな世界が広がるような、まだ見ぬ永遠の仲間に会うような(登場人物たち)、そして大きな航海に漕ぎ出すような、そんな気持ちです。

全体を通した印象などをメモする

一度通して読んだあとに、気になったことや、特に物語を通じた印象・イメージなどをメモします。

翻訳をしたり、何度も読んだりすると、最初のイメージがどんどん薄らいでいってしまう(脚本分析に寄っていく)ので、当初の新鮮な印象を忘れないためにも、メモをします。

稽古期間中などに、あとからこのメモを読み返してみると、そこに大きな創作のヒントが入っていたりします。

調べものをする

再び、今度はじっくりと台本を読み進めながら、英単語などを調べものしていきます。すぐに分かるようなこともありますし、どれだけ調べてもハテナ?ということも多々あります。笑

そういった場合は、しばらく頑張ってもだめな場合、寝かせておきます。分からないものを無理やり進めてしまうと、そこで本来の流れや物語が阻害されてしまうこともあるので・・・。

キャラクター(登場人物)の要素出し

次に、キャラクター(登場人物)の人物造形のヒントになるような要素を書き出していきます。

日本語訳への場合、一人称(俺、私、僕、おいら、わし、拙者、おいどんなど)の多様さや、言葉の語尾から受けるその人物への印象の強さ、などの影響があるので、特に戯曲という、喋り言葉(台詞)を多く扱うジャンルにおいては、とても気を使います。

日本語の言葉の持つ特徴については、ジェンダー表現ともかなり関わる部分が大きいので(ここでは詳しくは書きませんが)、すぐに翻訳を始める前に、その話者がどういった人物なのか、ということをどれだけ掴めるかが重要であるように思います。

こちらも、日本語の戯曲を読む際と共通ですが、

・その人物が戯曲を通して達成したいことは何か
・他の人物との関係性
・その人物の社会的背景・文化的背景(生まれ、育ち、時代、階級、職業など)

などを読み解いていきます。

また、

・話している英語のニュアンス、使われている単語に偏りがあるか

ということも同時に加味していきます。

私の場合、あまり「キャラクターの性格」という要素で考えないようにしています。

これは個人的な感覚ですが、性格というと、優しい、怒りっぽいなど、感情と結びついた要素に感じるのですが、それよりも、その人物が抱えている弱さ、葛藤、体裁、隠された欲求というものを読み解き、そこから俳優と共に人物を造形していくことが好きなため、感情がどうであるか、ということは特に稽古序盤や準備段階では重要視していません。

さらにミュージカルの場合、

・その人物が歌うナンバーがどういったものがあるか

という要素も、そのキャラクターの造形への大きいヒントとなります。

TARRYTOWNの場合、例えばブロムが歌うヒストリ―という曲や、カトリーナが歌うカトリーナの歓迎(イカボッドを学校へ迎え入れるときのもの)という曲などは、分かりやすく、かつ大きな割合でキャラクターを表してくれています。

(訳詞に関する創作ノートで書きたいと思いますが、書きたいことが多すぎて!!笑)


さぁ!訳してみよう

物語全体と、登場人物をちゃんと把握した後にやっと、さぁ訳すぞ!という時間です。

まずは何も考えずに、下訳的にどんどん訳していきます。この際に気を付けていることがあり、

・ト書はシンプルに、もとの文章の意味がなるべく変わらないように書く
・台詞は意訳も含めて、上記分析した人物造形にあわせて、翻訳するのではなく喋らせる

ということです。

話し言葉として書くというより、
「その人物が何を意図しているのか、伝えようとしていることは何なのか、ということを常に自分の感覚の中に置き、その役自身が、自分の言葉として発することを目指す」
というようなイメージです。
抽象的ですが・・・

日本語を使った会話では主語を省くことが多く、英語の場合は主語から始まることがほとんどなので、その違いとして、言葉が相手に刺さる/届く感触が違うのですが、それも含めて上記の感覚を忘れないようにしています。

これは私の中ですごく大きな感覚で、この感覚がないまま書き進めていくと、その台詞が文章的になっていってしまい、「キャラクターの言葉」としてではなくなっていくような感触がするのです。



文字ばっかりの記事になってしまいました・・・!
書けば書くほど、どんどん書きたいことが増えていくという罠です。

今回はこのあたりにして、また次回、次々回と、
「TARRYTOWN」という作品の翻訳で感じたことや、歌詞の訳詞に際してのプロセスなどをつらつらと書いていこうと思います。

お読みいただきありがとうございました。
また楽しみしていただけたら嬉しいです。

中原和樹

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