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第21回「翻訳・訳詞④【主語】について訳詞編」~創作ノート~TARRYTOWNが上演されるまで

こんにちは!ミュージカル「TARRYTOWN」の翻訳・演出の中原和樹です。

今回の創作ノートも前回に引き続き、翻訳・訳詞で【主語】を扱う際の観点について触れていきたいと思います。
前回は脚本を翻訳するという作業での記事を書いたので、今回は楽曲の設定や裏話にも触れつつ、訳詞作業での考えを書いていきたいと思います。

題材として取り上げるのは、作品の冒頭の方でイカボッドが歌うずばり「Tarrytown」という曲です。

(サントラでは最初にPrologueと呼ばれる曲も含まれているので、Tarrytownという曲自体は、0:30ほど過ぎたあたり、ア~~ア~~ア~~ア~~という声が終わった後からです)

この曲はNYから引っ越してきたイカボッドが、音楽教師として赴任する予定のスリーピーホロウ高校に向かう際、タリータウンの道を通りながら歌う曲です。

タリータウンの静かな風景、のどかさみたいなものが楽曲からも感じられる、素朴で素敵な曲です。

歌い出しの歌詞は、英語ではこうなっています。

Morning in Tarrytown
Folks are just waking,
a cricket still sounds

一行目でいきなり情景が分かりますね

これを直訳すると、以下のような意味になります。

Morning in Tarrytown(朝のタリータウン)
Folks are just waking,(人々はまさに起きるところ)
a cricket still sounds(こおろぎの鳴き声がまだ聞こえる)

このフレーズ内の主語をどう活かすかを考える前に、この楽曲の状況・内容を書き出してみます。この歌を歌う人物と、その人物の置かれている状況の整理です。

・この歌はイカボッドが歌っている(イカボッドが発している)
・そのイカボッドはタリータウンに引っ越してきたばかり
・赴任する高校に初めて向かうところ

こうして考えてみると、この歌は「主体としてのイカボッドが見たり聞いたり感じたりしている風景・情景・情報」と捉えられ、かつそのイカボッドが「高校に向かう途中で何を感じているか」という観点も重要であることに気付きます。

これはスト―リーの途中で明かされるのですが、イカボッドはNYでドラック中毒になり、自身の環境を変え、中毒から脱するべくこのタリータウンに引っ越してきます。
NYではなかなか街に馴染めず、友達も出来なかったイカボッドは、新天地のタリータウンでの生活に、新しいスタートとしての意味を見出しています。

ただ、上記したイカボッドの背景の情報は、この楽曲を聞く際にはまだ観客にもたされていません。

そうなると、イカボッドの感じている(見ている・聞いている)タリータウンの情景がどう繊細に描かれるかが、観客の第一印象としても重要であるという考えが浮かびました。

イカボッドの見ている風景/情景をただ説明するのではなく、その言葉/音楽の間や先にある、さらに大きな風景/情景を想起してもらいたい。

これが僕の中でこの「Tarrytown」という楽曲でのテーマとなりました。



では改めて、今回のテーマである「主語」を見てみると、こうなります。

(It's a )Morning in Tarrytown(朝のタリータウン、もしくはタリータウンの朝
Folks are just waking,(人々はまさに起きるところ)
a cricket still sounds(こおろぎの鳴き声がまだ聞こえる)

この主語を活かした訳にする場合、
朝のタリータウン
人々は起きて
こおろぎ聞く

歌の譜割の中でやろうとすると、これぐらいの情報量が限界です。
こうなるとただの情報としての意味が大きく、あまり情景が広がりません。

そこで、
朝のタリータウンは情報として一番重要なので、そのまま使う
という上で、人々が起きるということと、こおろぎの鳴き声が聞こえるという歌詞を検討してみました。

まず、主体のイカボッドの目から状況を見たときに、NYよりもこのタリータウンの方が人が圧倒的に少なく(これは、この曲の後半にNYではよく人にぶつかるという歌詞から根拠をとっています)、朝ともなるとさらに人が少ないということ(さらに別の歌詞で、スクールバスや郵便配達の人を道端で見かけること=それぐらいしか朝に人がいないということに言及しています)。

かつ、cricketの音が聞こえるというのは、単にこおろぎの音だけではなく、それぐらい静かな場所・環境である(こおろぎの音が聞こえるぐらい反応が無いというイディオムも存在する)ので、それだけこの朝のタリータウンに人影が少なく、静かであるということだと捉えました。

さらに言えば、こおろぎの声は夏の終わりから秋のイメージもあり、それはちょうどこの作品が秋(ハロウィーン)の時期を舞台としていることにも繋がります。

まとめると、

・イカボッドが一人、朝のタリータウンの路上を歩いている
・季節は秋、コオロギが聞こえるほど静か、人影はまばら
・その中でイカボッドが何を感じているかを、情報として明確に伝えたいのではなく、予感的に匂わせたい

という観点が僕の中で生まれたのです。

これを活かす形で考えると、主語を入れるか入れないかという判断の際に、
主語を曖昧にする方がいいと考えました。

それに伴い、「静かさ」というキーワードも相まって思い浮かんだのが、

「古池や 蛙(かわず)飛び込む 池の音」

という有名な俳句です。松尾芭蕉ですね。
これは一説では、「蛙の飛び込む音が聞こえるぐらい静かな場所」を表しているとも言われています。

この文章の主語を明確にしようとすると、とたんに情景・情感が消え失せてしまいます。それだけ日本語としての感性に結び付いた言葉です。

古池は場所・状況であって主語ではない。
飛び込んだ蛙を主語とすると、蛙が飛び込み池から音がした、という変哲もない文章になってしまう。かといって、池の音を主語としても同じことが起きてしまう。

この状況と、この状況に立ち会っている「私」=「主体」がメインであるということが、この「Tarrytown」の楽曲のようだと感じたのです。

そこでこの形式を借りつつ、自分の分析した意味を含めて、最終的に以下のような歌詞となりました。

朝のタリータウン
人影抜けて
秋の声

形式はもうそのまんまですね笑

これも、秋の声が主語かと言えばそうとも限らず、様々な聞こえ方(解釈)が出来そうです。かつイカボッドから見たタリータウンの情景を、短い語句で表わせた訳詞になったのではないかなぁと思っています。



主語を入れる入れないは、言葉としても聞こえ方としても、かなり雰囲気を左右するものだと思います。
日本語の特徴としての、主語を省ける / 省くからこそ生まれる情感は、翻訳する作品の性質によってももちろん左右されますが、言語を扱う表現者として、大事にしていきたいと改めて思った楽曲でした。


今回もお読みいただきありがとうございました。
また次回もお楽しみに!

中原和樹

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