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「ゴジラ-1.0」感想

観てきました。
感想を電車の中でちまちま書いてたら、観てから1週間以上経ってました。(観たのは11月下旬)
しかも下書きを書き上げた後で寝かせておいたら大寝坊しました。

あんまり寝かせておくのもなんなので、校正は後回しにして、とりあえずネットの海に放流します。

観たきっかけ

ゴジラシリーズを劇場で観たのは「シン・ゴジラ」が初めてだったが、同作が面白かったから。山崎貴監督の作品は観たことがなかったので、観てみたいというのもあった。

以下、ネタバレに配慮していません。




怖い存在としての怪獣

タイトルとは少し逸れるが、私は9月に「アリスとテレスのまぼろし工場」を観て、また10月に「北極百貨店のコンシェルジュさん」を観て、いずれも涙腺を潤ませている。そんなに正確に記憶しているわけではないが、涙がぽろっとこぼれたりくらいはしたかもしれない。
そして、11月に本作を観に行くのは既に決めていたため、「この調子でいくと『ゴジラ-1.0』を観ても泣くんじゃないか」なんて冗談を考えていた。周りの人にそんなことを言った記憶もある。
しかし、本作を観て泣くとは、もちろん本気では思っていなかった。泣くことがあるにしても、感動して泣くくらいだろうな、くらいに高を括っていた。

私は、ゴジラが怖くて泣いてしまった。

自分でもびっくりである。まさか一応成人して、ほとんどの人は社会に働きに出ているような年齢になってまで、「怪獣が怖い」なんて理由で泣いてしまうなんて、夢にも思っていなかった。

「ゴジラが怖い」といっても、色々ある。画面に写る出来事を現実のことと信じてしまうであろう純粋な子供なら、本当に現実世界にゴジラがいるのではないか、と恐怖するだろう。あるいは、大人であっても、ゴジラがなんというか強面で恐ろしい表情をしていて、空気が割れんばかりの咆哮を轟かせる様が、ああ怖いな、と思うことはあるだろう。
しかし、私が本作のゴジラが、涙するほどに怖いと思ったのは、上のいずれでもない。

私は、ゴジラにとって一個体のヒトがあまりにも無力であり、それゆえにゴジラがいわば絶望的な存在である、という理由で、ゴジラに恐怖を覚えた。恐怖というよりも、畏怖と言ったほうが近いのかもしれない。

本作では、ゴジラによって人が死亡させられるシーンが、躊躇なく写し出される。
大戸島をゴジラが襲撃するシーンでは、ゴジラに人が咥えられて遠くに放り投げられる様がはっきり描かれると共に、翌朝にはーーの手によって安置された死体の姿が写される。
私が特にショックを受けたのは、復興直後の銀座が再び焼け野原にされるシーンで、ゴジラが逃げ惑う人々を踏み潰す様が遠慮なく写されることである。
そう、本作のゴジラは、人間を踏み潰すのである。

ここで再び、少し自分の話に戻る。
私は、ウルトラマンシリーズが好きで、今でも毎週最新話をチェックしている。同シリーズでは、ビルと背丈が同じくらいの巨人であるウルトラマンが、怪獣や宇宙人と戦う。だから舞台はビル街などの人間の生活圏内であることが大半だ。たまに避難する人々の姿が写ることもある。
しかし、ウルトラマンは子供番組である。ということは、子供が観ていて楽しい、もっと言うと不快感を感じないような映像体験を提供しなければならない。
何が言いたいのかというと、ウルトラマンシリーズにおいて、人が怪獣に踏み潰されるようなことは、絶対に起こらないということである。私が見慣れているのは、怪獣ものとは言っても、そういう映像である。

しかし、本作のゴジラにそんなお約束は通じない。ゴジラは、人間が時折アリをいじめるときと同じような感覚で、人を踏み潰し、建物を破壊する。
このように、ビルが立ち並ぶようになってきた銀座の街を、ものの数分で瓦礫の山に変えてしまうゴジラは、それだけで十分に恐ろしい存在である。

しかし、私がゴジラに恐怖したのは、これだけが理由ではない。
もう一つ、私がゴジラをこれほどまでに恐怖する理由は、映像の見せ方にある。

カメラの目線のお話

再び少しウルトラマンシリーズの話をする。同シリーズは、いくつかの例外を除けば、1966年に放送された「ウルトラマン」以来ずっと、ミニチュア特撮という方法を用いている。昔はCGなど存在しなかったから、怪獣や巨大ヒーローが戦う映像を撮りたければ、この方法によるしかなかった。今でこそCGが広く用いられるようになったが、ミニチュア特撮という表現もまだまだ捨てたものではなく、時としてあっと驚くような不思議な映像が観られたりする。
しかし、ミニチュア特撮には、それがミニチュアを用いるからこそ発生する制約がある。制約それ自体は色々あるのだろうが、私が「ゴジラ-1.0」を観て特に感じたのは、「ミニチュア特撮で人間目線の映像を撮影することは難しい」ということである。カメラの目線がどうしても人の目線より高くなってしまうことが多いということだ。
もちろん、ミニチュア特撮の撮影に当たっても、ウルトラマンや怪獣の巨大感を演出するために、ビルを見上げるような形でのカメラアングルは多く用いられている。いくつかのカットでは、本当に街中で巨人を見上げるかのようなアングルが見られたりもする。例えば、ウルトラマンシリーズの最新作「ウルトラマンブレーザー」の1話だと、このようなカットが該当する。

真下からウルトラマンを見上げる構図


しかし、ウルトラマンや怪獣が動き出し戦闘を始めると、そうもいかない。ウルトラマンや怪獣が街中を移動して戦うのを、ビルのミニチュアの隙間を縫うようにして撮影用のテレビカメラで追従するのは困難だからだ。GoProなどの小型カメラもウルトラマンシリーズの撮影には用いられているが、追従の困難性という点ではさほど変わらないだろう。
そんなこんなで、ウルトラマンと怪獣が戦う場面では、相当カメラの目線は高くなっているはずだ。同じく「ウルトラマンブレーザー」の第1話より、いくつかのカットを引用する。 

ウルトラマンシリーズではよくある構図。目線が手前のビルの屋上くらいの高さで、結構高い。高架の上を走る電車に乗ったりしながら思うことは、この構図を実際の街並みで撮影するのは困難だろう、ということである


ピンボケしている街灯よりも高い位置に目線がある



本作は、徹底されているとまではいえないだろうが、人間目線に近いアングルが多く用いられているように思う。予告編から例を3つ挙げる。

目線の高さは地面から2mといったところ
人の目線より若干高いかどうかくらいの目線
目線の高さは人の肩くらい

このようなカメラアングルにより、観客はゴジラによる被害を、いわば実感をもって受け止めることができる。
私は、「シン・ゴジラ」のゴジラも好きだ。確かにあちらのゴジラによる被害も凄まじいものだ。内閣だって総辞職してしまうくらいには脅威の存在である。しかし、私は「シン・ゴジラ」のゴジラを、心の底から怖いとは思わない。描かれる被害の甚大さを見て「怖い」と言うことはあるかもしれないが、そのとき私は、どこか他人事のような感覚で「怖い」と言うだろう。だが、本作のゴジラは、私を他人事感覚ではいさせてくれない。

そして、人間目線(に近い)カメラアングルではなくても、本作では、本当にゴジラに襲われているかのような、臨場感と緊迫感に満ちたカメラアングルが多用されている。山崎貴監督のお家芸みたいなイメージが勝手にある(乗ったことはないが、西武園ゆうえんちの「ゴジラ・ザ・ライド」や「ウルトラマン・ザ・ライド」を手がけているからだろうか)。
ーーが乗った電車がゴジラに咥えられて持ち上げられるシーンや、当時はラジオだろうか、のアナウンサーが屋上にいるビルが崩れるシーンなどに顕著だろう。後者のシーンは、予告編でも見ることができる。

このシーン

色々言ってみたが、ゴジラという存在が観客を圧倒する上で、本作の映像は非常に効果的に機能しているといえる。

音楽の話

しかし、ゴジラが観客にとってここまで恐ろしい存在であるのは、映像によるものだけではない。本作においてさらに特筆すべきは、劇伴を含めた「音」の効果だろう。
本作のゴジラの咆哮は、初代のゴジラのものよりも低く、重たいものとなっている。空気全体がこちらに向かって押し寄せ、震えているような感覚である。思わずのけぞってしまいそうになるほどの圧迫感を感じる咆哮だった。
もう一つ、佐藤直紀氏が担当する音楽の効果も大きい。こちらもオリジナルの「ゴジラ」の音楽よりも、重く、ずっしりしたものになっている。「シン・ゴジラ」で使われた音楽と、本作の音楽を聴き比べれば一目瞭然だろう。一耳瞭然と言うべきかもしれないが。

(これは余談だが、私は佐藤直紀氏の劇伴音楽が好きだ。彼の作品全部を知っていたりということでは到底なく、自分が聞いたことがある彼の音楽に外れがない、というくらいの意味である。特に大河ドラマ「龍馬伝」のオープニングテーマが好きだ。)

今まで述べてきたことをまとめると、本作は、映画における様々な要素から、ゴジラを恐怖の存在として描いている。だからこそ、本作のゴジラによって、私は泣いてしまうほどに畏怖させられるのである。

邦画最高峰の映像

ここまではゴジラの「怖さ」に注目して本作の映像について語ってきたが、本作は、見出しの通り、邦画としては見たこともないほどハイクオリティな映像となっている。
ゴジラシリーズでは「シン・ゴジラ」の映像のクオリティも非常に高いと感じるが、あちらは炎の表現だったり、無人在来線爆弾のシーンの電車の車両の質感など、あともう一息、と思わされるシーンがいくつかあった。しかし本作を観ていて、ここの映像今一つだな、と感じることはなかったように思う。
特筆すべきは、水の表現だろう。本作では、海上のシーンが多いが、そこでの波や水飛沫の表現は、リアルそのものである。私は最近はあまり洋画を観ていないが、正直、洋画にも引けをとらないどころか、洋画よりもリアルな水の表現なんじゃないかと思う。(ちなみに、ミニチュア特撮でもっとも難しいのが、水(と炎)の表現だという。)
予告編から、特に水の表現が素晴らしいシーンのキャプチャを貼っておく。

波の細かな表現の精緻さは静止画だと伝わらない

続編が観たくない作品

ゴジラとの最終決戦を経て、ゴジラを海の底へと葬った敷島は、映画の最終盤で、ゴジラの放射熱線による爆風で吹き飛ばされ、死亡したと思われていた典子さんとの再会を果たす。ここは、ゴジラが怖いとか関係なしに、世間一般の意味での「涙なしには見られない」シーンだろう。私もうるっと来た。
これも、典子さんというキャラクターが美しくて芯が強く、それでいて献身的……とは少し違うが、他人に寄り添うことができる、魅力的なキャラクターとして描かれているからだろう。私は典子さんというキャラクターが好きだが、ここではこれ以上立ち入らない。

しかし、これでゴジラも撃退し、主人公も愛する人と再会し、ハッピーエンドかというと、そんな浮かれ気分で席を立たせてくれないのがこの映画だ。
ラストのカットでは、海の底へと沈みつつあるゴジラが膨張するかのような様子が映される。どう考えたって良くない咆哮だ。

正直、感想としては、意地悪だなあ、と思った。

意地悪というネガティブなニュアンスの言葉を使ったが、このラストが悪かったというつもりは決してない。(自分がネガティブな感情を抱いたから、このシーンの評価が悪いものになるかといったら、そんなことは決してないということである。)むしろあれだけ自分を畏怖させたゴジラなんだから、それくらいのしぶとさがあって当たり前だろう。
ただ、その直前までは、何もかもが前向きに終わっていたはずなのだ。ゴジラは撃退した。ヒロインとも再会した。そして主人公は、自分の中の「戦争を終わらせた」。これほどの大団円もなかなかないだろう。
それだけに、私はこの続きを見たくない。本作の登場人物は、みんな幸せに生きていて欲しい、と思えるくらいみんな魅力的だ。仮にゴジラが再び暴れようものなら、そんな幸せはいともかんたんに蹂躙されてしまうだろう。私はそれは嫌だ。
だから、私は本作の続編を見たくないな、と思う。続編はないほうが、平たい言い方をすれば、みんな幸せだろう。
(もちろん公開されたら観に行く。なぜなら、本作は一本の映画として傑作だと思っているからだ。)

あのラストシーンは、「ああどうして……」と思わずにはいられない。
しかし、このような無力感こそ、ゴジラが大戸島や銀座で暴れているときに自分が感じたものではなかったか。そう考えると、本作のゴジラは、自分にとって一人のヒトの無力感といったものを、これでもかと感じさせるゴジラだと言える。


その他雑感

  • 私は、本作をドルビーシネマで鑑賞した。ドルビーシネマで映画を観るのは「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」以来3年ぶりだったが、ドルビーシネマ、やはりすごい。全方位から漏れ無く音が聞こえてくるので、恐怖感も煽られるというものだ。

  • 本作を観ていて、「シン・仮面ライダー」を思い出した。どっちも浜辺美波がヒロインを演じていて、どっちの浜辺美波も死ぬ(ほどひどい目に遭う)。私は今年、実写の邦画をこの2作しか観ていないので、浜辺美波が死ぬ(ほど以下略)確率が今のところ100%である。ちなみに、私は浜辺美波は本作の方がハマリ役だったと思う。


結び

エンドロールの音楽として最後に流れたのは、こちらに迫り来るゴジラの足音だった。
続編という形で成果物が出来上がるかはともかく、もう、この物語には続きがあります、と言っているようなものだ。
続編が公開されたなら、その時はドルビーシネマで観るだろう。しかし、私は、「ああ、ゴジラが再び来てしまったか……」と、どこか無力感のようなものを感じながら映画館に向かうことになるだろう。

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