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「掃除」におもうこと

先日「釜を懸ける心構え」を拝読し「掃除」について深く感動を致しました。
感想を含め、掃除におもうことを雑多に綴りたいと思います。

日々拭く、祖母。

昔から私のばあちゃんはしばしば雑巾や布巾を使っていました。
ことあるごとに床を拭き、テーブルを拭いていました。
日常のなかに改まった「掃除」という時間はなく日常の中に「掃除」は溶けていたように感じます。(もはや、日常とは掃除だったようにも感じます。)

茶の湯と「掃除」。

掃除というと、なんだか退屈な日常の労働のように思われますが、その実、人を育てるとき、生きることを考えるとき、とても大切なことを我々に教えてくれいるように思えてなりません。

掃除とは衛生状態を向上することはもちろんですが、加えて「祓い清める」ことに繋がると思います。

もともと湿気の多い日本だから、清めないと気持ちが悪いという感覚は大むからしからあったと思いますが、それだけに留まらない精神性が備わってると思います。

平安期にはすでに、モップのような形をした棒雑巾や雉の羽をつけた羽箒が使われたと聞きますし、鎌倉時代に入れば特に仏教寺院で「掃除」は大切な意味を持ち、殊、禅宗では掃除を特に大切にしておるとききます。

茶の湯の所作も「清める」ことに終始しております。

茶会に参加したとき、どんな素晴らしい道具を拝見することよりも、露地や茶室が清浄に清められているだけで、本当に心が洗われると同時に、深く深く頭を下げたくなるものです。

「掃除」にまなぶ。

「掃除」から学べることは言葉に言い尽くせぬほどにあると思います。

例えば、「目の前のことに集中する」こと。

簡単なようでとても難しいことです。現代においては特に。
あらゆる情報が飛び込んで来るので、注意していないと「過去か未来を憂う時間」ばかり過ごしてしまいます。

「今」にフォーカスするのに、掃除はとても大切なことを教えてくれるように思います。

「丁寧に、はやく。」

余計なものを削ぎ落とし、やるべきことを最小限の動きで、かつ格好良く行う。
お茶で学ぶことをこれに尽きると思います。

そして、昨日よりも少しでも格好良い自分を目指す。
(このくらいがシンプルでいいと思っています。)

幸田露伴が掃除について、「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつに水は使えない」と教えたというエピソードが思い出されます。

生活にまつわる様々なことを機械がやってくれる現代、生きる実感が得られない人が少なくないように思います。

こんな時代だからこそ、自分で露地を清め、畳を拭いて、炭に火をつけ、お湯を沸かして、道具をあらためて清めて、お茶を点てるという取り組みや、「掃除」から学べることは存外多いのではと感じております。

「丁寧に、はやく。」爽やかにな空気が抜けるように生きていけるようになりたいと心から思います。


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