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母が望む洋服と、それを着られない罪悪感をすこしだけ手放した話。

今年のクリスマスは洋服を売りに行った。

母からもらった服を売った。

これは、人によっては“よくあること”なのかな。
それとも、“信じられないこと”なのかな。“考えもしないこと”かもしれない。

わたしにとっては、初めてのことだったし、めちゃくちゃ勇気のいることだった。わたしにとって母と洋服の問題は、自分が自分らしくいられるかどうかの問題とつながっていたから。

わたしは物心ついた頃から“男の子のもの”に分類されるものばかり好きだった。

スカートははきたくないし、フリフリひらひらはもってのほかだった。

だけど、母の着せたい服は、わたしが着たくない服だった。

それから20年以上、いやもっとかな。とんでもない時間が流れて、それは今も変わらない。わたしは自分の服のことだから譲らないけど、母も母でずいぶん譲らずにきたもんだ。

幼い頃はまだ真っ向から反抗できたからよかったものの、大きくなるにつれて母のかなしい顔に気づいてしまったもんだから、どう接していいかわからなくなってしまったのも、ここまで解決せずにきた原因なのかもしれない。

いや、でも高校時代は例に漏れず反抗期真っ只中で、ダボダボのジーパンに柄の悪い模様のパーカーに頭は剃りこみ、眉毛は線で、サングラスまでかけちゃう、みたいな黒歴史福袋セットみたいな格好をしていたこともあるんだけど。。

こればかりは本当に、どんなに血がつながっていたって母とは別の人間なんだと強く実感させられるポイントで、母がどんなふうにそんなわたしの変遷を受け止めてきたかはまったくわからない。

自分が着たい服は自分で選ぶからと伝えても、母にとっては娘に服を買ってあげるということがしあわせみたいで、どうしてもしてしまうらしい。

だけどわたしはわたしで、受け入れられない洋服を着ていると自分のことが好きになれない。

母がよかれとおもって買ってきてくれた服を喜んで着られない、母のしあわせを叶えられない、というのは、
母がどうしても願ってしまう、男性と結婚して子どもを産むという道を進めないことと重なって、わたしの中に重荷として積み重なって、しかも歳を重ねてもなくならなかった。

それに、わたしだって自分が好きでしている格好にかなしい顔をされるというのは、なかなかにきついものがあった(黒歴史福袋は別として)。大学入学で親元を離れて物理的な距離も心の距離もとれたおかげでずいぶん生きやすくはなったけど、根本的なところはなかなか軽くならないでいる。

でも人生は不思議なもので、わたしは大人になって彼女と出会って、そして彼女のお母さんと出会った。

彼女は、わたしの格好をいつも好きだと言ってくれる。

同じく同性愛者であっても、経験も感覚も考えも違えば、もちろん洋服の好みもちがう。相手に望むあまりに相手の好きなものをまっすぐに見られなくなるのは、異性も同性も変わらずあることで、わたしの格好や好きなものを当たり前のように受け入れてくれていると思っていた人が、華奢なアクセサリーをプレゼントしてくれることもあったから、わかり合えることのほうがもしかしたらすくないのかもしれない。

だから、だからこそ、今の彼女と出会って、わたしの好きなものを大切にしてくれることは奇跡みたいにおもうし、わたしも、彼女の大切なものをそのまんま見られるようにしていたいとおもう。

そして、彼女のお母さんに出会えたことは、わたしにとってめちゃくちゃ大きなことだった。

初めてお会いしたときに、色々な事情も重なって、友達ではなく「お付き合いさせていただいています」と挨拶をした。彼女が席をはずしたときに、彼女のお母さんは、「連れてくるのは、男でも女でもいいのよ」とちょっと笑いながら言ってくれた。

あとで聞いたら、彼女のセクシュアリティにも気がついていたみたい。

こんなふうに受け止めてくれる親がいることは知っていても、自分が出会えるとはおもっていなかった。

こればかりは、本当に運に近いものだとおもっている。
どんなに好きで、どんなに大切な相手だって、カミングアウトしたときにどう受け止めるかは、コントロールできるものじゃない。たぶん、本人ですら、コントロールできないものなんだとおもう。

だから、お互いに予想外にショックを受けてしまうこともあるだろうし、その逆もある。

わたしの母は前者だったけど、そればかりはもう、本当にしょうがない。いいとか悪いとかの話じゃないから、しょうがないとおもうことにしている。

だから、彼女のお母さんがそんなふうに受け止めて、当たり前のように娘の彼女として接してくれることも、わたしが大好きな洋服で彼女のお母さんに会いに行けることも、本当に、本当にうれしくて、しあわせなことだとおもっている。

母から何度もおくられてくる洋服をずっと気にしていたわたしを見かねて彼女が、「着られない服は売って、そのお金で大好きな洋服を買ったら、すこし気持ちが楽になるかもよ」と言ってくれた。

きれいにしまっていても、着られるようになるわけではないし、罪悪感はなくならない。ずっと罪悪感を抱えて、洋服も抱えて過ごしていくなら、そのほうがいいのかもしれないとおもった。

イブからクリスマスにかけて、彼女は夜中付き合って売りに行く服を選んでくれた。

そういえば、母からもらった服を一度くらいは着てみようと毎回袖を通してみるんだけど、彼女が顔が全然違うと止めてくれてようやく、自分の苦しさに気づけたこともあった。

親元を離れたときも、距離に救われた。
ずっと手元に置いて大事にしなきゃいけないとおもって苦しくなっていたけど、そばにあるだけが関係性の深さではないんだろうとおもう。彼女のおかげで、今ではどうにもならない過去の自分も、すこし救ってあげられた。

母のことが大切だからこそ、解決できない問題がある。
だけど自分の心を軽くしてあげることを忘れちゃいけないと改めて感じた。

母との関係も、洋服を通じた関係も、お互いの気持ちも、これから先どんなふうになっていくかはもちろんわからないけど、2020年のクリスマスのこと、きっとこれから先も何度も思い出すんだろうなあ。

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