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教育虐待「あなたのため」は呪いの言葉

子ども向けオンライン動画制作教室「FULMA Online(フルマオンライン)」を運営するフルマの齊藤です。

教育虐待についてもう少し勉強したいと思い手に取った本が、教育ジャーナリストおおたとしまさ さんの著書
「ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち」です。
(記事下部にリンクを掲載させていただきました。)

僕の周りでも何人か思い当たる方がおり、どうしてそうなってしまうのかを知りたいと思いました。
また現在子育てをしている方にも、教育虐待という言葉を知ってほしいと思います。

親向けコーチングの罠

最近は親向けに子どもとどう向き合うのかなどをコーチングの手法を用いて子育てに応用するセミナーや講座が行われたりしています。
コーチングとは本来、その人が本当の力を発揮するのを支援するための技術です。しかし悪用すれば、子どもを思い通りにコントロールするために使えなくはありません。
つまり、親がコーチングの手法を学ぶ目的が、
親の思い通りに子どもをどうコントロールすることだとしたら黄色信号です。

自分なりの教育方針が強過ぎないか

子どものことは、親である自分が一番わかっている。
この教育方針で自分がうまくいってきた。
この教育方針で家庭教師をやったとき、教え子がうまくいった。

そんな自分の中に確固たる自信の教育方針がある人も要注意です。
教育方針があること自体は悪いことではありませんが、
自分が上手くいったからといって、もしくは過去にうまくいったからといって、子どもにもそれが当てはまるとは限りません。

それなのに、子どもにはこうしなさい、ああしなさい、それがあなたのためなんだと、周りが見えなくなりはじめ、子どもSOSに気づくことすらもできなくなってしまうかもしれません。

一番危険なのは感情を押し殺した"いい子"

非行という形でSOSを発することができる子はまだマシだと著者は伝えています。親子での殺人事件が起きた時に「どうしてあんな"いい子"が」というのが一番危険。親も本人も自分が虐待している、されていることに気づいておらず、周りも分からないケースが多いようです。親の期待が高過ぎて、勉強はできて当然、ミスは許されない、ミスをすると罵倒され、暴力を振るわれる、実際にあった事例では椅子に縄でくくりつけられる、というエピソードもありました。
自分を押し殺し、自分の意見を言わず、親の指示されたとおり、無難に生きていく中で、どこかでブチっと何かが爆発してしまう。

「うちの子は何を考えているのか分からない」
「自分の意見を何も言わない」

そんなふうに子どもに対して思っている親御さんがいるとすると、
それは言わないのではなく、言えない、もしくは言っても無駄だと思われているのかもしません。
過去に自分の意見を受け止めてもらえなかった、反対ばかりされた、そんな経験が続くと自分の意見を言わないようになっても当然なのかもしれません。

体罰がダメな理由

むかし、スポーツの世界では、テレビなので熱血先生として涙を流すドキュメンタリーなどが流れていました。
保護者も、先生の愛はあるからと考えていた人もいるかもしれません。

愛があったとしても、なぜ体罰はダメなのでしょうか。
それは体罰は身体的苦痛を伴うからではありません。
問題の本質は、精神的苦痛や恐怖が伴う点です。
身体的な苦痛は短期間で消せたとしても、精神的な傷が後遺症のように残ったり、場合によっては致命傷になる可能性があるからこそ、体罰は絶対にあってはならないのです。

これは体罰だけではありません。
言葉による罵倒や態度による存在価値の否定も、まったく同様のリスクがあります。

指導者は体罰を使わない指導方法を身につけるべきであり、体罰のような外発的な動機づけではなく、声かけやコミュニケーションを通じて内発的動機付けができるようにサポートしていくことが望ましいのです。

核家族化が子どもの逃げ場を妨げた

むかしは大家族で、色んな大人に囲まれて生活していたため、子どもの話すことに誰かが相談に乗ってくれたり、応援してくれたりしていましたが、両親と子ども、のように核家族化が進んだ結果、家庭環境が子どもにとって心理的に安全な場所でなくなった場合、非常に大きなストレスを常に抱えることになってしまいます。
塾は親の教育熱を煽る存在としてうつる場合もありますが、子どもの逃げ場になっているケースもあるようです。これは学校や習い事も同様かもしれません。
たとえ、うちの家庭環境は大丈夫だ、という自信があったとしても、子どもには色んな大人と関わる機会を作ってあげることが子どもにとって救いになる場合もあるのかもしれません。

教育虐待予備軍が使う2つの言葉

1つ目は「どうしてできないの?」です。
分からないことが理解できない、親の未熟さのあらわれだそうです。
そんなこと言われても、子どもは困ってしまうし、「こんな問題ができないあなたはバカだ」という含意が子どもを直撃します。
何の解決にもならず、問い詰めれば問い詰めるほど、子どもの頭の中が真っ白になる、非建設的なコミュニケーションです。

2つ目は、親の怒りを正当化する「約束」です。

子どものテストの点数が悪かった時、
「どうしてこうなったと思う?」
「これからどうする?」
冷静に、怒鳴ることなく、原因と対策について話し合う。
そして
「これからどうするの?」と聞き、
子どもから
「これからはゲームとYouTubeを見る前に勉強する」
と約束させる。
ほとんど誘導尋問ではあるが、こうやって子どもは約束させられる。

こんなシーンは割とよくありそうですね。
親もコーチングのように子どもの意見を引き出し、子どもが自分で言ったことだ、と思っているかもしれない。

そして約束が破られると「やるって言ったじゃないか!」と親は子供を責める。親は厳しく叱る正当性を得られるわけであり、子供は言い逃れができない、そして追い込まれる。
親だって守れないこともあるのに、それを棚に上げて子どもには要求してしまう。子どもを叱る十分な理由を見つけてから、正論を振りかざしてはいないでしょうか。
子どもは反論できず、逃げ場を塞がれ、完全に追い詰めれてしまう。

これはまさに理性の皮を被った感情による攻撃です。

学歴コンプレックスが子どもを追い込む

これは自分に学歴がない人が我が子に過度な期待をするパターンと、
自分は学歴があるから、子どもにもそうさせようとするパターンがあるそうです。
さらに最も教育虐待に陥りやすい親は、これらのハイブリットが型です。
例えば、実は東京大学に行けず、慶應義塾大学に行った、のような場合です。成功体験と屈辱の経験が融合し、我が子への歪んだ期待になります。
我が子の成長や努力を認めてあげられず、もっと頑張れ、もっと頑張れと鼓舞し続けるのです。
「高学歴がないとまともな人生を送れない」という恐怖心を子どもに植え付けることで子どもをコントロールしようすとする、それが教育虐待の基本構造になっています。

生きてくれていればいい

一度死のうと思った子どもの親は「ただ、生きてくれていればいい」とそれだけを願うようになるそうです。
いい成績を取らなくていい、学校なんていかなくていい、生きてくれているだけでありがたいと思うようになるのです。
逆にいえば、その気持ちを忘れてしまうと、子どもは我が身を犠牲にしてまで、それを伝えなくてはならなくなってしまうのかもしれません。

教育虐待に陥らないための問い

(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認めていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていませんか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?

親は無力でいい

親になると、子供のためにあれもしてあげよう、これもしてあげようという気持ちに駆られます。しかし、そのまま期待通りの成果をもたらすとは限りません。むしろそうならないことの方が多いでしょう。親の意図とは関係ない方向に子供は育っていくものです。子どもの存在を否定したりせず愛情をもって育てれば、勝手に育っていく、そのぐらいの気持ちでいいのです。

さいごに

自分が正義に立った時、人間は残酷になる、という話もありますが、
あなたのためにやっている、なんでわかってくれないの、と自分が正しいと思い込み、子どもの意見を聞かなくなると危険なことがわかりました。
教育虐待の親は「ごめんなさい」が言えないそうです。
「こんなに苦しんでいたなんて知らなかった」
「そんなつもりじゃなかった、こういうつもりだった」と自己弁護に入る傾向があるそうです。

子どもを一人の人間として尊重し、愛の押し付けにならないようにしなければいけませんね。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を大人自身もちゃんと言えるようにならなきゃいけないなと、自分も含めて思いました。

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