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人間の価値はどこにあるのか?

人間の価値はどこにあるのか?

近年技術の発展等で人力でやってたことを段々と機械に任せる風潮が強まっている。例えば、スーパーのレジで人力でお金を数える機会は減り、電子マネーで取り引きする場面も増えている。これからもより技術が発展し、人力で行うことは段々と減ってくるだろう。そうなると、人力で行わねばならないことは減り、人間がいらないセカイになりそうである。

さて、技術を発展させ、ミスをする可能性を減らす風潮があるセカイで人間はいらない存在なのであろうか?ここに人間の価値を考える余地があると思う。

人間にしかできないこととは?

やはり、人間の価値を考えるとなると、人間にしかできないことを考えるのが定石だろう。さて、人間にしかできないこととは何か?

考えることはどうか?
人間のみが思考すると考えるのもいい線いってるとは思う。しかし、論理性は機械には敵わない。機械は常に合理的に動くことが可能である。さらには、人間ではない動物も知能を持ち、考えることができるという見解もある。例えば、サルやチンパンジーは道具を何かのために使うことができる。

それならば、人間にしかできないことはないのだろうか?そんなこともないと僕は考える。
人間のみが失敗をし、その失敗を引き受けることができる。

機械は失敗をしないように作られている。常に合理的に動き、より利益を得られるような選択をするであろう。逆にサルやチンパンジーはどうだろうか。彼らには失敗という基準がないと考える。エサを得るために何かをし、エサが得られれば成功。それ以外を失敗と自身で決めつける基準が欠けている。だから、こうすれば成功するということは分かるが、成功しなかったときに責任を感じることはないと考える。

人間のみが失敗をし、それを引き受けることができる。例えば、仕事でミスをしたとき、そのミスを失敗と捉え、失敗に責任を持ち、埋め合わせをしようと努力することができる。これは人間特有と言ってもいいのではないか?

人間のみができることと人間の価値

人間のみができることには人間しか持たないものが大きく関わっている。それが理性精神と呼ばれるものである。

例えば、車の運転やモビルスーツの操縦には人間が必要となっている。それは、人間が理性や精神を使って選択することができることが重要だからである。合理的だからといって、人を殺すような行為をしないのが人間である。そこには理性や精神と呼ばれるものがはたらいている。

しかし、こういった面も今は人間にしかできないことと考えることもできる。これから先、理性や精神のようなものを持ったロボットが現れる可能性は否定できない。技術は日々進んでおり、より良い選択やより良い意志をすることができる機械は現れるであろう。

しかし、こういったロボットは失敗を引き受けることはしない。失敗をしないための存在として作られているからである。ロボットは合理的な思考をし、合理的に行為する。つまり、合理的な行為を彼らは成功と考え、その行為の結果人が死んでも関係ないのである。ロボットには合理性以外の判断材料は与えられていないからこそこのようなことが起きる。

人間は違うだろう。人間は合理的な判断もできるが、その合理性を適するときに使用することができる。人間はそれぞれが成功/失敗の判断基準を持ち、人によって程度は違えど、失敗したときに、その失敗を失敗と捉えることができる。

ここに人間の価値があるのではないか?
人間は生きていると、その生きている場所や文化により、価値判断の基準ができる。この基準に従い、成功/失敗の判別をすることができる。そしてその基準に従い、失敗をすることができる。これが人間が生きるということであり、失敗を引き受けるということでもある。

まとめのようなもの

人間は失敗する。いや、人間は失敗できると言ったほうがいいのかもしれない。その失敗は失敗である以上何かしらの基準に従い判断されるものである。その判断基準は人間それぞれが持っている。この意味で、人間は失敗を引き受けることができる。ここに人間の価値があるのではないか?

だから失敗を恥じることはない。失敗してもいい。その失敗を引き受け、次の失敗に続くために。


どうやら僕はマックス・シェーラーの思想に影響を受けているようです。



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