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ポテトサラダを作りながら考える、「正しい家庭料理」

「ポテトサラダ」がTwitterでトレンドに入っていた。発端は、とあるツイートだった。

場所はスーパーの惣菜コーナー。子どもを連れた女性に対して、「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と呼びかけた高齢の男性。

その状況に対して私は「赤の他人の食卓に口だしする権利は誰にもないだろう」という意見しか持たない。

子ども連れの女性に対する高齢の男性の暴言という構図に対して批判の声がある一方で、タイムラインでは「ポテトサラダは手間がかかる」といった料理をしている人の声や、「買った方が安価で美味しい」といった意見も多かった。きっかけが何であれ、トレンドに入るとみな好きに話しだすのがTwitterだ。

あまりにポテトサラダという単語を目にするものだから、つい作ってしまった。もともと「正しい家庭料理」について思うところはあったので、ポテトサラダに適当にスパイスを振りながら考えをまとめてみた。

ポテトサラダは“割に合わない”

ポテトサラダは、家庭科の教科書に載っているような家庭料理で、技術的な難易度は低い。ただし、教科書的な「正しいポテトサラダ」は毎日作るのには適していない。

芋を洗って鍋でゆでて皮を剥き、潰してマッシュポテトを作る。タマゴを茹でて潰してマヨネーズでまぜる……単純作業ではあるが、皮を剥くのは労力がかかるし、潰す作業は力がいる。ポテトを茹でた後の鍋や潰した後のボウルを洗うのも手間が大きい。キュウリやニンジンなど他の野菜を入れるならその分の工数も必要だ。

それなのに、炭水化物主体で主菜として摂るのは向いていない。せいぜいハンバーグの添え物的な立ち位置になる。たくさん作った方が作業効率は高まるし、親ふたり子ひとりの家庭で一度に消費する量は限られている。

冷凍保存は効くものの、少し食べたいだけならスーパーで買い込む方が抜群に効率が良いのは確かだ。わざわざ手順を踏んで作るのは割に合わないような料理だ。

それでも作るのは楽しい

筆者の場合、そういった面倒な料理をシステマティックに処理化するために、家に調理家電をいくつか揃えている。ポテトサラダでは皮を剥いたあと、ホットクックを使ってタマゴやタマネギと一緒に茹で、フードプロセッサーでまとめて潰す。後はマヨネーズやら塩こしょうやらと合えるだけだ。

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家庭料理を手作りすることの何が良いかと言えば、味をアレンジできることだ。ポテトサラダは味の裁量が幅広いので、筆者はただマヨネーズを入れるだけなく、ローズマリーやらオレガノやらバジルやら投げ込んで適当に味をあわせている。ときにはオレンジやキウイフルーツと合わせたりもする。

作る楽しさはあるし、家で作るものでもないが、それでも洗い物の手間はある。そして工数も考えると、経済的とは言えない。最初から作ることにこだわらず、冷凍マッシュポテトを買い込んで作りためるくらいでちょうど良いのではないだろうか。

家庭料理は“ハック”してこそ

料理という家事はアレンジの裁量が大きく創造的な楽しみもあるが、毎日続けようと思うと負担になる。負担にならない程度に割り切るべきだろう。だからこそ私はなるべく調理家電を揃えて、どこまで手を抜けるのかを試しつつ、日々適当に料理を作っている。ホットクックは本当に便利だ。

ポテサラの件の類似の事例として、「クック・ドゥ」のようなあわせ調味料を認めないという人もごくまれに観測されるが、これも作る側としては意見を聞く必要はないと思う。中華食材の調味料を揃えてお店の味と同じものを家庭で作ろう、というのはもはやお店と同じ材料と技術が必要になる。それをコンパクトにまとめたあわせ調味料を使うのは、理にかなっている。

食育という観点から考えれば、子どもに料理をしている姿を見せた方が良いだろうが、別に毎日、全品目でそれをする必要はないだろう。

むしろ子どもの生活力をつけることを考えたら、中食や冷凍食材、あわせ調味料やミールキットなんかを活用しながら、ほどほどの負担で料理をこなせるような方が応用力があるように思う。

「正しい家庭料理」を定義して遵守するのは、かえって料理から遠ざけることになる。むしろ基本的な料理を覚えたら、後はどこまで手を抜けるかを追求してこそだ。家庭料理は“ハックする”ものだ。正しさより持続可能性の方が重要。

時に失敗することもある。だがそれでいい。その日の夕飯がちょっと微妙な献立になるだけで、ほとんどの場合、死ぬことはない(ただし、衛生面だけは気をつけるべき。火の通り具合とか低温発酵で設定間違えてないかとか)。

正しくなくていいので、気楽にやっていきましょう。









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