小じさん第二話「赤い小じさん」

 久しぶりに仕事を早く上がることができたある日、少し外の空気を吸いながら散歩をしてみたくなった僕は、会社から数駅、電車に乗らず歩いてみることにした。さすがに全て徒歩で帰宅できるような距離ではないから、歩けるところまで歩いて、そこから電車に乗る算段だ。

 日はずいぶん傾いていた。乱立するビル群に阻まれながらも、その隙間から西の空のオレンジが覗き、天頂の濃藍へと見事なグラデーションを描いていた。こんな自然が成す色も、久しぶりに見た気がした。昨日まで、しばらく終電間近の時間帯に退社する日々が続いていた。仕事を終えて会社を出れば日はとっくの昔に沈んでいて、ネオンの人工的な色を別にすれば、ほとんど白黒の濃淡しかなかった。

「おい、そこの」

 ふと、誰かに呼び止められた気がした。周囲を見回す。ちらほらと歩行者はあるが、それらしい姿は見当たらない。一部の歩行者が、キョロキョロする僕を怪訝そうに一瞥して通り過ぎる。

「ここやここ。上!」

 声の通り上を見上げると、建物の庇に人型の小さな何かが腰掛けていた。その建物はずいぶん廃れていて、ちょっとした嵐にもすぐに倒壊してしまいそうなたたずまいをしていた。何に使われている建物かは判然としなかった。看板ひとつなく、家屋のようにも見えなかった。人の気配もしない。
 庇に腰掛ける何かは全身赤色だった。空の濃藍を背景に、その存在がくっきりと浮かび上がる。顔のパーツがなかった。
 これは――――そう。これは、まるでいつかの緑の小じさんと同じだ。身体の色が違うだけ。

「いま、何時頃や」
 赤い小じさんが言った。赤いのっぺらぼうの顔が僕の方に向けられる。
「えっと、午後の5時過ぎくらいです」
「しもた! 寝過ごしたわ!」
 小じさんが慌て始める。
「まあ、お前さんに見えとるゆうことは、そういうことやな」
 僕が首を傾げていると、
「ほら、あっち見ぃ」と、小じさんは西の方を指でさした。「ほんまはワイ、あすこにおるはずやったんや」
「あそこって、西の……」
「そうや。夕暮れ時の茜さす空や。ほんまはワイ、今あすこに溶け込んでなあかんかってん。せやから普通、人の目には見えへんねん。やってもぅた!」
「あの、あれって、溶け込めるものなんですか? その……空の色って光の屈折率で……」
「そんな細かいことはええねん!」小じさんは僕の言葉を遮った。「やってもうたわぁ〜」
 僕は面食らった。緑の小じさんのときもそうだったが、小じさんはとにかく自分のペースが絶対のようだった。

「まぁ、ええわ」
 そう言うと、赤い小じさんは急に落ち着いたようだった。のっぺりとした顔――実際それは何もないただの赤い“面”だった――が、僕の方にじっと向けられる。
「ときに、お前さん」口調がやや改まった。「なんでそんな浮かない顔しとんねん」
 唐突な質問に僕は一瞬、返答に困った。少し考えて、こう返した。
「仕事終わったばかりなんで、少し疲れているのかもしれません」
「そこや! そこやねん」
 小じさんが急に語気を強めた。
「この国の人らはなんで仕事終わったあとに浮かれんと、浮かない顔すんねん。普通、しんどい仕事終わったあとは浮かれるやろ。浮かれんとおかしいやろ」
 僕は小じさんの言わんとすることを頭の中で咀嚼したのち、言った。
「小じさんの言うことはわかります。でも、仕事が終わってもしばらくはその疲れを引きずってるっていうか、それから、明日以降もこのしんどい仕事があると思うと、安心しきれないっていうか……」
「小じさん?」
 小じさんは“小じさん”というワードが引っかかったようだ。確かに、僕が心のなかで勝手に彼をそう呼んでいただけで、実際に声に出してそう呼ぶのは初めてだった。もっともな疑問だ。
「まぁ、ええわ」
 しかし、小じさんはそう言うだけで、呼び方についてそれ以上は聞いてこなかった。

 そこでふと、僕は周囲に視線を巡らせた。どういうわけか、道行く歩行者はもう僕のことを気にしなくなっていた。小じさんの姿も気にとめていない様子だった。普通なら、廃墟同然の庇に座る未確認生命体のような存在と、それに向かって何かを話しかけている僕のことを怪しがって然るべきだ。関わり合いになりたくないと、距離をとってもおかしくはない。しかし、何故かはわからないが、周囲の人たちにとって僕たちは景色の一部のように、何の疑問も抱かれていないようだった。

「なるほどな。そういうことな」小じさんが、しばらく間を置いて口を開いた。「今日のしんどい仕事を終えただけではリラックスしきれんということやな。そうか。大変やねんな。そうか」
 そう言って小じさんは頷いた。その頷きには、むしろ自分を無理に納得させようとしているかのような強引さがあった。
「まぁ、頑張りや。ワイらも大したことはしてあげられへんけど、できることはするさかい……まぁ、あまり期待せんとってほしいけどな。まぁ、頑張りや」
 ワイ――ら?
 僕は小じさんの言葉が少し気になったが、小じさんは僕に質問の余裕を与えず続けた。
「ほな、先行ってくれ。こうなったら、一周してまた明日夕暮れの空がこの辺に来たときに合流するしかあらへん」
 一周して? 僕にその仕組みはよくわからなかったが、あまりこれ以上小じさんと長話するのもよくない気がして、今日のところはひとまず小じさんの言う通り帰路に戻ることにした。

■これまでの小じさん


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