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神の舞を舞い踊る

こんにちは!魔タリカ 766歳 、魂のR指定です。
タオ・ダンス&メディテーション今年の最終回、岩手県盛岡を終えました。
帰りには盛岡にお住まいの大先輩、清水友邦さんご夫妻とおしゃべりする時間をいただいて、ハッとするインスピレーションまでいただきました。
本当にラッキーです!
少しずつ、皆さんにもシェアできるよう言語化していけたらと思います。

ところで、私のワークは「タオ・ダンス&メディテーション」という名前ですが、そのダンスには「型」がなく、意味のある振りも皆無です。

能楽師の安田登さんが「あわいの力」という本で



「能の舞において大事なことは、言葉にならない「おもひ」を伝えること
(どう伝えるかではないのて、お間違いなきよう).あるいはその深層にある
「心(しん)」を伝えるエネルギーをどう引き起こすかであって、
「振り」には意味は必要ない。
いや、必要ないどころか意味があってはいけないのです。
意味が付与された途端にそれは理解可能な「こころ」の領域に属するものになってしまうからです。
これは芸能としてはとても珍しいことです。」

あわいの力


本来、能の振りには意味がないのだそうです。
フラや日本舞踊は一つ一つの振りには意味がありますが、宗教行為であった
カヒコという古典フラの原初の形では、振りには意味がなかったのではないか?ともおっしゃっています。
タオではこれを「言葉にできるものはタオではない」と表現します。

能の振りに意味が付与されたのは明治以降で、観客にわかりやすくして、興行収入を得るためだったということです。
能は、こちらの世界とあちらの世界の間(あわい)の黄昏時、昼と夜の間の夕闇、ある人が幽玄の世界に迷い込んで亡霊に出会うという、普段は繋がることのない未知の世界の物語です。

「未知」を恐れる私たち現代人は、何でもかんでも「理解済み」フォルダの中に入れて、さらに細かなカテゴリーに分けて分類したがります。
分類できれば分かったような気になれるからです。

言葉も振りも、人間世界で理解できるように翻訳された途端、未知(神秘)とのコンタクトが失われてしまいます。
未知を恐れるのは、暗闇を恐れてそこいら中に電気を灯すマインドによく似ています。そうしておけば安全だというわけですが、おかげで人間は休むことも忘れてしまい、今や暗がりに跋扈するのは、亡霊よりも生きた人間の心の闇です。

その昔、師曰く「チャネリングの精度を高めるには、自分の波動を高めることだ。でなければ高位の存在とのコンタクトはできない。」
ということでした。

………….続き  波動を上げる、回転数を上げる

あちら側の波動が高いほどに、人間には理解不能。エゴが邪魔して物事をあるがままに観られず、在らしめられないというわけです。
津波や地震、気候変動という地球の言語ですら、自分たちのエゴの形に合わせてしか理解できないのが私たちのレベルだというのに、どうやって宇宙の言語と繋がろうというのでしょうか?
私が瞑想を始めたきっかけは、まさにそれだったんですがw(まだまだ修行中) 

早く回転するほどに、静かに静止しているように見えるのは駒ですが、「波動を高める」というのは、駒の回転数を上げることと同じです。回転数が遅ければ、倒れてしまって静止に至ります。
瞑想とは、回転数を安定的に上げるための一つのトレーニングです。
タオでは、「小周天を回す」というのもその一つのエネルギー形態です。

踊りもまた、回転数を上げていくことで無になる、エゴを落として空っぽの器になる、神のチャネルとなることです。
誰かに見せるためでも、競い合うためでもなく、うまく踊る必要もなければ、褒めてもらう必要もありません。

ただ心のままに音に運ばれて、一心不乱の一瞬になって、もし未知に触れられたら、恐怖と歓喜の入り混じった訳のわからない涙が溢れることもあります。
未知とは、自分自身の内側に潜む神性だといえます。
自分の可能性に怯えて、じっと身を潜めて生きていたのに、突如として
宇宙の中に放り出されて神のようなものに出会うのです。
マインドが受けてきたトラウマや悲しみを、一瞬にして超越する体験は
最初のうち、恐ろしい体験として認識されることもあります。

だけどその恐怖というのコインの裏側は、爆発的な歓喜のエネルギーです。
家に戻ると、あまりにも凡庸なルーティンの日々に、小さな失望を感じたり、「もうこんな気持ちは味わいたくない」と思ったとしたら、「もう神の領域には足を踏み入れなたくない、自分には取り扱いできない」というエゴの声なのかもしれません。

宇宙的なオーガズムと出会った時も同じです。
望洋とした宇宙で神との出会いに震える体験は、マインドやエゴのその先にしかありません。未知との出会いはエクスタシーです。
多くの女性が訴える悩み「不感症」も、大いなる力との出会いを恐れているからなのかもしれない、と思うことがあります。

意味のない踊りは神への入り口です。言語の理解を超え、エゴやマインドの自動運転を蹴破って、有機的な自分自身に戻ることを恐れないでください。外側を探し続けて疲労困憊するのもまた一つの経験で、周り回って巡りてめぐる、神に捧げる舞のようなものなのかもしれないですよね。

誰もが心穏やかに暮らせる世界でありますように。
誰もが自分の真実を生きる世界でありますように。

Love♡

Tarika

2023 / 11月2日発行メルマガより



神の舞を舞い踊る


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