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裏社長室(第9回配信)を見て、考えたこと、感じたこと。

隔週水曜20時配信、緒乃ワサビさんの「裏社長室」(第9回)の感想等です。

私自身、特段、仕事道具というものがない職業に就いているので、職人さんとかでもそうですけど、プロが語る自分の仕事道具、というこだわりは、聞いていて楽しいですね。あとあのステッカー、かっこよいな、欲しいな、とか思いながら見てました。

というか昔の作家は、長編書くの、めちゃくちゃ大変だったろうなぁ。

次回テーマは「学生時代の思い出話」になりましたが、他にも色々案があって、それぞれ、結構考えました。

例えば、「ヲタグッズにいくら投入するか?」の流れで、転売に関するものがありました。

転売対策関係で、販売価格そのものをあげる、というのは、評価の難しいところだと思います。むろん、高い価格を設定しても売れるのであれば、事業者として困ることはないので、評価もへったくれもないのですが。

転売屋は、その傾向として、資産的、投資的価値のあるものに留まらず、元の価格が高ければ、単純にそれ以上の値付けをして販売しています。それが許容される(心情的な意味ではなく、実態として。)のは、それでも手に入れたいという人がいるからです。

朗読劇のようにほぼ完全にクローズドの性質を持っているものは、本体価格が高いからといって、ガチなファンの本体への興味が削がれるわけではないように思います。

なので、販売価格の上昇で排除されるのは、コア層や転売屋ではなく、「微妙に好き」というライトな層でしょう。
その層が抜ける→抽選の倍率が下がる→どうしても手に入れたい人のもとへの供給率が上がる→転売屋死亡、という理屈はわかります。

…が、うーん。ちょっとモニョりますね。

多くのクリエイターの方が、転売行為というものに相当神経質になっていることは理解しているつもりです。あんなもの、本人らからしたら気分悪いに決まってる。

ただ、本来なら、販売の段階で排除したいのはライトなファンではなく転売屋のはずで、そして当初目的に鑑みれば、転売行為を抑止するために、クリエイターはモノを作っているわけでは決してなく(言うまでもなく、ひとりでも多くの顧客を喜ばせるために事業活動を遂行しているのであって、転売をさせないことが第一の目的ではない。)。。。

まあ、余計なことは言いっこなし。

何にせよ、クリエイターの方に、気持ち良く仕事をしていただく、適正に利益を確保していただく、というのが、ファンとしては一番です。

          *

「日本製」

今では「日本製=高品質」という認識を持っていたり、MADE IN JAPANにこだわりがあったり、というのは、かなり一般的だと思いますが、自分より20歳〜くらい上の世代の人には、強い舶来品信仰がありました。

景品表示法という法律の5条3項に、「原産国表示」に関する規制があります。

同法5条1項には「優良誤認」に関する規制があり、これは実際のものよりも著しく優良であると誤認させる表示を禁ずる、というものです。

例えばイタリア製の繊維商品を日本製と偽った場合、その表示が優良であると誤認させるか否かは多分に議論の余地があります。

他方、原産国表示は、表示と実際の原産国が異なれば、優良性の有無を問わずアウトです。

若い人たちには信じられないことかもしれませんが、昭和40年台…昭和50年代初頭くらいまでは日本製であることを隠す、ごまかすという事業者が少なからずいました。

当時の日本製品の品質に関してどうこう、というのは、今や知る由もありませんが、少なくとも漠然と、海外への憧れや、海外製のモノの方が売れる(日本で作ったものを外国製とするくらい。)という時代は、確かにあったのです。

それが、ここ20年くらいで「MADE IN JAPAN」にこだわり続けることが、付加価値であったり、訴求ポイントであったりします。

私が好きなブランド「BONCOURA(ボンクラ)」のパンツには、必ず(?)↑のタグが付いています。

このボンクラ、名前はともかく、大のデニム愛好家・草なぎ剛さんをして「レプリカを超えた、ボンクラという名のオリジナル」とまで言わしめたほどのデニムを作るので、ご存知の方は間違いなくご存知のはず。ちょっと、話がそれました。

で、そのタグには「いいから試してみろって。これは日本の職人のプライドの結晶だぜ?絶対に気にいるから。」と書かれています。

かっこいいですね。普通、ここまでいえる?日本の職人の凄さを、この人(森島久さん)もまた、矢面に立って、代表して、主張しているわけです。

エプロンといえば、今また販売再開になったボンクラのデニムエプロン。渋いな〜。着る機会ないけど欲しいかも。

ちなみに自分は「MADE IN USA」に憧れる最後の世代くらいだと思います。まあ、ぶっちゃけ、アメリカ製のものって大雑把です。服なんかでも、「ステッチ飛んでるやん!」「同じLサイズなのに着丈全然ちゃうがな!」なんてことはザラです。

でも、そんなところもご愛嬌というか、劣化も味や貫禄というか、なんかかっこいいんですよね。
今日もそんな大雑把な、80年代のアメリカ製リーバイスのGジャンを着て出かけました。そんな感じです。

         *

「年をとってよかったこと。」

これは確実に、個々人によって、またステージによって抱く印象が異なるでしょう。それが大前提です。
そして、少なくとも40代前半バツイチ子なしである私個人に限れば、結論から言うと、何もありません。

いま改めて思うのは、若さというのは、誰もが持っていた、巨大な財産であって、魔法であったな、ということです。

年をとればやはり頭も悪くなるし、容姿も衰えるし、体力はなくなる(今日も気管支炎が長引いて、痰をたんたんとたーんと製造しながら配信を見ていた。)し、何より選択肢が少ない。

加齢を肯定することに関しては、誰が何を言おうと、苦し紛れでしかないとすら思います。

そう思うのも、やはり40代前半という微妙な年齢だからなのでしょう。何かを成し遂げたと胸を張るには早すぎるし、かといって主役に居座り続けるには明らかに年を喰いすぎている。
能力も下り坂なのに、意識だけは第一線の若い奴らに負けるかよ、と譲らない。
他方で、欲望だとか矜持だとかを起因とする様々な執着を手放すには、まだ先が長すぎる。

実に面倒くさい。

とはいえ、これが60歳70歳くらいになり、老い衰えた自分という現実を素直に甘受できるようになったなら、物事への執着や執念も薄れていったなら、そして周りも「もう、あの人もおじいちゃんだからなぁ。」と認識するようになったら、捉え方も違ってくることでしょう。
そのとき、俺はこれを成したと誇れるものがあればなお良いです。

たぶん、そうなれたときの自分は心も平穏で、きっと何をするにも楽なはずです。そういう状態になれば「年をとるのも悪くないな。」と思えているような気がします。

年をとってよかったこと、は、冒頭のとおり、ぶっちゃけないんですけど、いま以上に年をとることの楽しみがないかといえば、年をとることが嫌かといえば、決してそんなことはないぜ、という感じでしょうか。やり直しは効きませんが、生き続けていくことはできます。死ぬまでは。

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さて、次回はもう12月ですね。「先生」の話は、また本配信で出てくるのではないかと思います。

緒乃さんも、先生、というものに対して良い印象を抱いていない様子なのは明らかというか、そもそも、良い先生に出会えたという人が幸運なんじゃないかと思います。私もちょっと、思い浮かびません。

ただ、この年齢になって振り返ると、「所詮彼らも、30代40代の、別に傑物でもない、せいぜい自分と同程度の、普通の人間」でしかなかったと思えるようになり、自分自身の今の在り方を鑑みると、そもそも彼らに対する期待値が大き過ぎなかったか?と思うことも少なからずあります。

…あっ。自分が年をとることで、何らか同じような立場に立つことで、共感(同情)できることがあったり、その結果、わだかまりを解消することができたり、というのはあるのかも。

というわけで、次回配信も、楽しみにしています。

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