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裏社長室(第18回配信)を見て、考えたこと、感じたこと。

隔週水曜20時配信、緒乃ワサビさんの「裏社長室」(第18回)の感想等です。

「30代でまともな独身」がモテるのは、確かにそうですね(私がそうだった、という話ではなくて、一般論ですよ。)。

ただ、これが30代後半になると、「その年齢でバツなし独身って、もうそれだけで地雷物件確定」になってきます。何も問題なければ、結婚しているに違いないという、一見もっともらしい論理的帰結。
非東京圏のハイスペ男性なら、なおのことです。

ただ、モテることはモテると思います。向けられてる視線が微妙なだけで。

40代バツイチは、こう言ってはすごく失礼(これは私の話で、何はどうあれ、向けられているのは好意なのだから。)なのですけど、「いやー、そういうの、もういいよ。」って感じになります。
たぶん、思ってるモテ方とは違います。楽しくないモテ方です。

まあ、身も蓋もない言い方ですが、人によるんでしょうけどね。

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秋が短いのはもう毎年のことですが、今年は春も短かったですね。東京は花粉の出だしが早い(1月終わりにはもうグズる。)ので、花粉症が春の季語でなくなってしまったことも大きいかと。

既に、夜中以外は暑いです。ときどき、「この季節から冷房を入れていたら、半そでを着ていたら、真夏になったとき耐えられない!」みたいなことを考えて、うっかり我慢してしまう、ということってままありますよね。

でも、そんな我慢にあんまり意味がないことに、40年以上生きてきてようやく気がつきました。

お金なんて、日々を快適に気分よく過ごすためのものだなー、と。

逆に快適さが欲しいのに、そのオーダーに応えてくれてないもの、多いですよね。
鉄道とか、道路とか。

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引越のお話。本来、緒乃さんがおっしゃるとおり、「ここだ!」と思える家に出会えるまで足を運んでみたり、不満まではなくとも、「もっといい物件があるはずだ。」という意識を持っておくことが、失敗しない引越の秘訣なのでしょうね。何事にも通ずることかと思います。

私自身は、東京へ転勤する際、引越の内見は一件しか行けませんでした。

当時はコロナ真っ只中、とはいえ仕事は(緊急事態宣言で遅れた分)普段以上にしなければいけない、という状況で、内見自体も着任の10日前とかだったので、日帰りで住まいを探さなければいけなかったのです。内見の旅費や宿泊費は(当時は大阪に住んでいた。)は1円も出ませんし。

最初の緊急事態宣言が出たのが、20年4月7日。東京転勤の内々の打診を受けたのが、その2、3日後だったはずです。まぁ、びっくりですよね。

「いや行きますけど、出るなって言うてるん、政府ですよ?大丈夫なんですか?」と聞いたら「東京にしろ大阪にしろ、どっちも緊急事態宣言出てるからへーきへーき」と言われました。そんな理屈あるんか、と目からウロコでした。

結果として転勤の時期は少しズレましたけどね。

家はスーモか何かで3軒ほど決め打ちしていました。最初は新宿御苑で考えていましたが、初期コロナで一番ホットだったのが新宿だったのでボツに。

で、優先事項だった職場までの駅数と家賃を勘案した結果、新富町界隈に住むことにしました。湯島案もありましたけどね。今にしてみれば湯島がああいう街だなんて夢にも思いませんでした。

文京区という名前や、湯島天満宮のイメージから、てっきり文化的で格調高い街だとばかり。

新富町の家での生活は、正直、強いストレスを覚えるほど家が狭いこと、スーパーがしょぼいこと、土日に気楽にいける外食屋がないことはネックですが、嬉しい誤算だったのは、このあたりには大学がなく、ほとんど大学生がいないことです。

大阪時代末期、隣にくそやかましい大学生が住んできて、甚だ不愉快な思いをしたこともあった(追い出しましたが。)ので「隣、学生じゃないですよね?」と仲介業者の女の子に尋ねたのですが、ウヤムヤにされました。

今は個人情報保護の関係からか、どんな人が住んでいるのかすら答えられないみたいですね。

それはそれとして、東京の大学ってこんなに多いのに、東京駅の東側には全然ないのって、ちょっと不思議だと感じています。無くていいのですが。

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そうだ。猪口才な話といえば、件のくそやかましい学生の父親が後日、喧嘩腰に謝りに来たことがありました。本人でなく父親。パパならあいつをやっつけてくれる。まさしく猪口才ですね。

父親は、生意気そうなおっさんでした。生意気そうとかいいつつ、当時の時点で大学生の子供がいるくらいだから、間違いなく私よりも年上でしょうけど。

むかついたので、泣かしてやろうと思いました。

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せっかくの来客なので、部屋の中に招き入れました。

「まあ、座ったら?」と言って座らせたところで、机を殴りました。そして、

「お前、ナニ本当に座っとんねん。謝りに来たんちゃうんか?」

と怒鳴りつけました。最初からヤカラを噛ます気満々だったわけです。

目線はかちあうんですけど、父親は完全に動揺してました。「すみません。」と言いながら立ち上がりました。正直、立つんかいな、と思いましたが。

「すみませんやないやろ。お前、何しに来たか言うてみい。」

上着を脱いで、鍛えた両腕をむき出しにしながら、怒鳴り続けます。再度、「すみません。失礼しました。」と、良い年したおっさんはいいました。とりあえずもう一回机を殴って、下からねめつけます。勝敗は完全に決していました。

ただ、ここでやめちゃダメなんですよね。

私は

「あー?俺アホやからすみませんでは分からへんし。何しに来たって?」

と返しました。既におっさんに戦意はありません。直立のまま、すみません、というだけです。

「ほななんやねん、その態度は。その態度は何なんや?聞いてるやろ。無視すんなや。舐めとんか、お前。何しに来たか、聞いてるんや、お・れ・は。」

さらに机を殴ります。

言わせたいのは、「謝りにきました。」という言葉です。わかりやすくいえば、自供とか自白と呼ばれるものです。

例えば殺人であれば、自分の口で「私が殺しました。」と発することで、その人の心では「私が人を殺した。」ということがいよいよ事実になります(本当に殺していれば、ですよ。)。

それは、重い重い、オモリになります。

こうなると、滅多なことでは覆せません。

本人の意思で「殺しました。」と言わせるのと、「殺しましたよね?」「はい。」というやりとりをするのとでは、天と地ほどに違う。この違い、わかる人にはわかるんじゃないかと思います。

結局、謝りに参りました、このたびは申し訳ありませでした、言うてましたけどね。米粒みたいに小さくなっちゃいましたけど、あんな父親の姿を息子(くそやかましい学生)が見たら、尊敬どころか、一生軽蔑の対象だっただろうなぁ。

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緒乃さんの早稲田愛は、さすがでしたね。稲門会員とか三田会員って、それぞれ早稲田ブランドと慶応ブランド(慶応関係者が絶対慶応を「慶應」って書くのが鼻につく派。)への愛着がひときわじゃないですか。

それでも、当たり前ではありますが、そういう人もいるんだ、と。私は大学時代を京都で過ごしましたが、京都のことを好きになれて、京都で過ごせて良かったな、と思っています。

ちなみに東京4年目ですが、高田馬場に行ったことはありません。

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18歳頃の緒乃さんが、サークルに入ろうとはしてみたけど、居場所を見つけられなかった。という、どこかcase-1有島の原風景を覗けるかのような貴重な話。

ただ、緒乃さんって、やろうと思いさえすれば全然どんな人とでも折り合える(学生の付き合い程度ならなおさら)人だと思うのですけどね。さすがに、学祭実行委員の人のノリにあえてついていくかどうかはともかく。

人間関係にワンアウト退場制を導入したり、いつか何かの折、「心の中の有島が顔を出した」みたいなエピソードをコラムに書かれていたこともあったように思いますが、そういうのは緒乃さんの、言わばストレスを溜めないための処世術というか、心のスタビライザーというか。

純粋に、しなくていい我慢をしたくない、する意味がわからない、という、非常に合理的な人なんだろうと思います。

違っていたらごめんなさい、ですが。

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数日前の緒乃さんの「生存戦略コラム」を読んで、また、わりと身近な人のうんこ発言をタイムリーに聞いて、思ったこと、書くか書くまいか迷っています。

正確には、書いたけど、上げるか上げるまいか、ですが。もうたぶん、ここまで読んでくれてる方もいないだろ、って文量になってきましたし。

「自分が変わるべきだ」と考える人、「周り(世の中)の方が変わるべきだ」と考える人の話です。
まあ、機会があればまた、というところですね。書いたらちょっと、気分もすっきりしましたし。

次回の配信は、ゴールデンウィーク期間中なのですね。私は岐阜の家からの視聴になりますが、楽しみにしています。

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