見出し画像

「健康」は大事だけど、執着しない


「健康でありたい」という束縛

健康のことだけど、心の話。ヨガの話。

時々、人と話していて感じることもあれば、自分の中を観察していて感じるのが、健康は大事だけど、「健康でありたい」という観念に束縛されていないか?ということ。

内面を観て、観念という束縛に気づき、そこから離れていくというのは大事だなと思います。
生活の中で一つ一つ些細なことでも、当たり前に良かれと思っていることでも、束縛ーつまり執着になっている場合があって、それを解消していくのがヨガの実践です。


例えば、健康のために、この食べ物は1日◯◯gまでしか食べてはいけない、健康のためにこの栄養素とこの栄養素を摂らないと!だから、毎日これとこれを食べて…。
◯◯産の食材は良くない、添加物や農薬は体に良くないから全部オーガニックのものを買って…。
いろんな健康法の情報に左右され、いいと言われる健康法に関する何か(食品、器具、サプリなど)を買って試しては、あ、でも、こっちもいいらしい…。←いつまでも安心できないでいるという意味。

例えばですけどね。普段こういう行動を取っているかもしれません。
こういう行動が良くないということが言いたいのではありません。以下で話しますが、こういう行動の根っこにある観念・考え方を見ていこうというのが、今回話したいテーマです。

生徒さんの中で、健康でいたくていろいろやっているけどキリがない、健康への不安は消えない、いろいろな情報に振り回されていることにも疲れていると言っている人もいたり。

昔の私も上に書いたようなことをよくやっていましたし、気持ちは分かる。
とにかく健康でありたいからいろいろやるわけだけど、それをやっている時点で健康になっていったり、別に不調があるわけではないけど、なんか心は不自然な感じでした。

私の場合は、そもそも健康でいたいという思いがなぜ起こるのかを突き詰めていくと、病気で体に苦痛が起きるのが嫌だ・怖い、もし健康を損なって好きなことが出来なくなったら嫌だ・それは不自由だと思っていたし、死が怖い・死んだら全て終わりなどの観念が元になっていました。

体が自分そのもの(存在を表すもの)だと思っていて、体の快適さや安全を損なったり失ったりすることへの「恐怖」が、そういう観念の元になっている。

健康になりたい、健康でありたいというこだわり(執着)が強いと、例えばちょっと体調を崩すと心配して考え過ぎたり、ネットで検索しまくっては、いろんな情報に左右されて動揺したり。

健康に良いという行動を良かれと思ってし過ぎたり、もし健康のためにしている何かのルーティーンが崩れると気が済まなかったり、不安が生じるかもしれない。

食べ物なり道具なり何か健康のために必要なものを揃えたり、検診やら医療保険やらのお金がかかっていたり。←そのために働いて、でも仕事で休む暇がない、ストレスフルとかだったら、何のために働いてるの?

あれもして、これもして、あれも食べて、これを飲んで、これを塗らないと、ここに行って施術を受けないと…と、時間に追われているかもしれない。

健康に気を使うのは大事です。

でも、健康であるために、心のどこかで「これをしなかったら…(悪いことが起こるのではないか)」とか「これをしなければいけない」に縛られて
不安や嫌悪感、罪悪感、強迫観念が生じたり、神経質になったり、過敏になっていたり、老化や死(必ず訪れるもの)を受け入れることが出来なかったら、それってなんか違うよね?という話です。

健康って体についてのことだけでなく、心も健全であることが含まれるからです。

何のための健康なのか?健康は目的ではない

ヨガって実は体を重要視していないんですよね。体は魂の入れ物とか乗り物とか、道具くらいの位置付けで、大事に大事にしがみつくようなことはしません。
体に愛着を持つな。むしろ、愛着を持つから、老い、病気、死を恐れ、苦悩になると言います。

体は一時的に神から借りているもの、一時的に持っているものというくらいの距離感で使っていく。粗末にしないけど、借りているものだから丁寧に扱うが、時期が来たら(死期が来たら)気に入っていても駄々をこねずにすっと返す。

じゃあ体の役割は何かというと、体という道具を使って、本来の自分(真実、本質)を知っていく。それがヨガの目的です。

これを、めちゃめちゃ噛み砕いて言い換えれば、何かにしがみつかなくても、恐れなくても、心配しなくても、誰かにいい顔したり認められようとしなくても、何かになろうとしなくても、穏やかに幸せに生きることが出来る。

これに気づいて疑いなく受け入れること。

じゃあヨガのポーズや呼吸法(ハタヨーガという流派)は何のためにあるのかというと、健康のためではなく、本来は瞑想を正しく苦痛なく快適に出来るように
体、呼吸、エネルギーを整えるためにあります。
瞑想を通じて、自分とは何なのか?本質に気づくための準備として位置付けられています。(そうじゃないという捉え方もありますが)

瞑想のためだけでなく、世間に身を置いていれば、子供を育てるとか家庭を守るとか、生活を立てていくということが必要です。
そのために、健全に誠実に役割が出来るように丈夫で気力に満ちた健康な体が必要になります。
↑好きなことをして、おいしいもの食べてという暮らしの前にすべきことですよね。

でも、これもヨガに関係ないわけでなく、どう意識するかでヨガの実践になります。(ポーズや瞑想を行うことだけがヨガをすることではないよという意味です)

こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず、結果を期待せず、過程を誠実にすることに注意しながら行為をすることを通じて、「私が・私のもの」という我を捨てたり、執着を捨てることで、本質を知っていくのです。
(この道はカルマヨーガといいます)

だから、ヨガにおいては健康は自分を知るための手段であって、目的ではないのです。

健康よりも、どう生きるかを考える。

じゃあ、今の私はというと、健康は大事だし気にかけるけど、神経質にならないように気をつけています。

早寝早起きする、適度に運動する、適度に働く、適度に休む、食べ過ぎない、タバコも酒もやらない、心穏やかにいられるように行動を自制する。

私の場合は、健康のためにあえてやっているというよりは、ヨガの教えを守っていけばこういう暮らしになるし、自分を観察して不調和をもたらす不必要なことを排除していった結果、自然とこういう暮らしになっているという感じです。

でも、昔の私は健康に興味があって、栄養素を調べるのが趣味でしたw健康にはあれがいい、これは良くないとか気にしていたけど、現在は特に気にしません。
ベジタリアンだから、そもそも栄養が偏っていると言われがちだけど、だからといって別に気にしません。
去年、気まぐれでがん検診と健康診断を受けたけど、別に問題ありませんでした。

でも、ベジだからと言って、砂糖ばっかり、塩ばっかり、炭水化物ばっかり、油ばっかりという食事はしないようにしています。
それは、自分の心身をよく観察してなんかおかしかったし、生活や修行に支障が出ると気づいているからです。
※でも、観察した結果って、結局ヨガの教えで教えられていることだから、ヨガ行者や聖者はすごいと思います。

専門知識や科学的な情報も大事だけど、体質も気質も人それぞれ違うから、自分が自分を観察して取捨選択していくことも大事だと思います。

まぁ、そんなこんなで、こういう暮らしをしていて、体調が崩れたらそれはもう仕方ないと思っています。
体は気をつけていても老化するし、ロボットじゃないし。天候や災害は自分ではどうしようもないし。

でも、体調を崩したならそのままでいいというわけではないです(^^;)
民間療法を用いることが多いけど、様子を見て(病院嫌いだけど)病院に行って対処します。

ただ、心配して妄想しない。
といっても、私も現時点では体に執着があるから、「悪化したらやだなー(苦しい、痛いのが嫌)」「どうなっちゃうのだろう」などと、ネガティブな方に向かってしまうこともあります。
でも、そういう心を見張って、考えても仕方ないと止めて律する。そんな感じです。

また、ロボットじゃないから不調になることもあるし、老いや死は必ず訪れるわけで、それを普段から積極的に考えることも大事ですね。
どう生きるかだけでなく、どう老いを迎えて死を迎えていくか?

昔はそんなこと考えたくない、縁起でもないとか思っていたけど、そうやって遠ざけていくほど、どんどん病気や老化や死に対して不安が増したり、受け入れ難いものになっていくなーという体感がありました。

病気になっても慌てなかったり、死を抗わず受け入れるには、結局は毎日コツコツ誠実に欲に溺れず、しがみつきを捨てるように過ごすのが出来ることなんですけどね。
そういう生き方をするためのガイドとしてヨガの教えがあります。
結局、いつもここで話していることに着地します。

【個人ページ】個人的なこと、もっとディープなヨガのことを気楽に書いています↓

Tara Yoga オンラインと飯田市のヨガ教室

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?