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2023.4.25日記『時間と自由』ベルクソン著

今日のこと
 
バイトの後、学校の図書館へ。
愛読家宇多田ヒカル推薦図書の一つである『時間と自由』べルクソン著と、以前から気になっていた『読書について』ショウペンハウエル著を手に取った。
どちらの本も随分と長い間、図書館のお飾りになっていたらしい。誰かに借りられたのは5年前が最後だ。
時の名著も、時代が違えば、置かれた環境が違えばただの印刷物同然なのだと返却期日表を見て少し寂しくなった。
 
本を開けば活字の海。
ここで私は上手く泳げないことを知りながらも、つい興味本位で字をなぞる。ただ、なぞるだけ。字と認識はできるが、文章としていま一つ理解できない。まるで英文を読み解くように一つ一つの熟語を辞書で調べてはノートに書き写す、そうやって私は本を読む。
 
『時間と自由』大学卒業を目前にした私に刺さるタイトル。大学を卒業してしまえば、学生から社会人へ。今よりも時間と自由が仕事や責任に搾取される立場になる。少なくとも身近な社会人はそうだ。
まぁ、人それぞれだと思うが…。
一頁目から初見殺しの熟語オンパレード。
だから、タイトルから中身を想像した。
意識下においては時間は永続的で自身の気持ち一つでのびたり縮んだりと柔軟だが、実際は有限で不可逆的、そして一定。ゆったりと、あわただしく常に進行している。
内在的時間と人為的に築かれた外的時間の概念のはざまで生きる私たちに与えられた自由とは何か…。
浅学無知の私ができる推測はここまで。
ゆっくり時間をかけて読み解いていこうと思う。
 
よく、寝る前や入浴中に言葉の定義を考える。
きっと暇だから。何かに没頭していると寂しさが中和されるからだと思う。
例えば、今日触れた自由とか。
辞書では、自由とは第一に、強制や束縛を受けず気ままに振る舞えること。(コトバンク引用)と、定義されている。
現実はそうだろうか。自分自身が最も自由だと思う瞬間を考えてみてほしい。
私の場合は料理中。
キッチンに立つ私はとても気ままに振る舞っている。そこは私の城だから、他人が介入するスキはあまりない。だけれども、何時までにご飯を作らなきゃいけないといった時間の縛り、器具、材料や食費の縛り、様々な強制と束縛が存在する。つまり、実際の自由、少なくとも私の自由は定義から外れている。
新たに私の自由を定義するとすれば、ある程度の強制や束縛がある状況において気ままに振る舞えること。だろうか。よくわからないが。
自由と聞くと、「真夏の通り雨」宇多田ヒカルの
”自由になる自由がある”という歌詞を思い出す。
自由に随分不自由した、している私に刺さるフレースだ。
 
数冊の本を借りて図書館を出ようとした時、二人の青年に道案内を頼まれる。私はこの大学に3年間在籍していたのにも関わらず、彼らの目的地を口頭で案内することができなかった。卒業間近の人間がろくにキャンパス案内できないの⁉と思わせるような彼らの苦笑い。申し訳ない気持ちでいっぱいの私。
時間に余裕があった私は現地まで彼らを案内した。
去り際に「先輩!絶対卒業してくださいね!」と大声で可愛い軽口を叩かれた。おかげで悶々とした気持ちが晴れた。
色んな人と話せてそれなりに笑えた良い一日だった。
 
今日の単語
多寡
痛痒
小難
チャンク化
猥雑
 

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