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君の孤独が長いから-前編

 真冬の海の風のようなしゃがれた声でセンちゃんは「うまく生きれん」と涙を空気に含ませた。唇の跡を残したテカテカのグラスを手にしたまま「ぐうう」という不快な音を鼻奥から絞り出し、もう泡も残っていないビールの水面を揺らし続けている。油でギトギトの畳の上にあるペラペラのサブトンに胡座をかいて、何度拭いても油脂を薄く伸ばしただけのテーブルに空いている左手の肘を乗せたセンちゃんは、茶色く濁ったおしぼりの表面のように汚くて荒い呼吸を繰り返していた。

「うちはどうしてこうなんやろう」

 独り言のように話しかけられた言葉が落下する。視線の先は足元の畳? ううん、首の角度からして親指と人差し指の中間かもしれんね。外反母趾なんやよっていつか自分で言っていたカチカチの皮膚を目で追って、ついでのように爪で摘んだり刺したり揉んだりしてるんかもなあと、相槌も打てないまま声を拾い上げた三秒後に思う。
 嫌やな。これいま俺に話しかけたんやな? たぶんそうやろう向かい合ってるもん。けど、ほんと嫌やな、困る。どうしたんやろ急に、なんなんやろ。泣かれるとは思ってもみんかったけどな。どうすればいいんやろ、というかまじで意味わからんし、ほんとどうすればいいん。まったく意味がわからん、わからん。泣くようなことなん。ねえ、それって俺に聞かせんといけんことなん? 彼氏とか友達とかに話すことじゃないん? もう帰りたいんやけど……とそう思った。

 センちゃんとはアルバイト先のコールセンターで知り合った。情報教材を取り扱う全国チェーンの会社でいて俺たちが住んでいる地方にも支部がある。小洒落たビルの六階にある奥の奥のフロア。オフィスに続く廊下の照明は常夜灯のみが存在感を主張していて、珍しくないため息は怖いし帰りは普通で、仕事内容は営業マンがクロージングに取り掛かる前のアポイントを電話で取り付けることでいて、小学生から高校生までのお子さんがいる家庭を対象に、渡されたリストのコール番号に片っ端から電話をかけることで時給は二千五百円。

 うちは塾に通わせてるので大丈夫ですと話す相手に「あ、そうなんですか。通われてからどれぐらいなんですか? どうですか、成績は上がりましたか?」と声をかける。

 上がりましたよ。自宅でも私も教えていますから、ですから結構です。

「お母様が直接教えていらっしゃるんですね。すごい。でも本当はそれが一番いいんですよね、実際昔は教材なんかに頼らないで自分だけで勉強してた子もいたじゃないですか。それをねえ、学校の先生も塾の先生もみんな言ってますけど、『親が教えられても教えないほうがいい。親のいない時間に勉強しない子になる』とかなんとか、しかも文科省のお願いを要約した『ゆとり教育の結果、教師側の教える力の低下』なんて記事を書買新聞が記事に書いちゃったりなんかしたもんだから。あ、ほら昔より科目が増えているのにひとつの教科にかけられる絶対数が減っているじゃないですか。学校だけの勉強じゃあ無理だってことを国が認めちゃってるんですよね。うーん、仕方のないことだとは思うんですけど、でもおかしいじゃないですか。そりゃお金を持ってる家庭はいいですよ。週に一度の算数や英語だけじゃなくて、家庭教師も雇えたり。ね、お母さん。なんやかんやうまくやれるのはお金持ちだけですよ。だからほら、六大学の合格者の家庭を調べたら父親の年収で一千万を超えているのがざらだなんて結果が出るんですよね。でも、どうせやるなら塾よりも、家庭教師よりも負担のかけないで成果を伸ばせることを未来あるお子様に! って思うんですよね」

 ……必要になったらお願いするかもですけど、うちの子にはまだ早いかなって。

「お母さん、これは本当によくみなさんおっしゃるんですよ。みんなですよ、みんな。実際お母さんの言ってることは正しいんですよ。なぜかというとね、塾に通わせられているお子様はみんな成績がいいんです。うちも学校の先生の会員さんすごく多いんで、だからよく聞くんですけど、今の小学校って三段回評価なんですよ。要はよくできたに何人つけてもいいんです。だから、どこのお宅に電話をしても『うちの子は成績いいですから!』なんて言われちゃって。なんですけど、中学校からは相対評価なんですよね。五を取れるのが学年の七パーセント。四が二十四、三が三十八、二が二十四という形で、三人に一人が二を与えられてしまうんですよ」

 ……色々やってますし、スポーツも塾もやってますからこれ以上は無理かなって思うんです。ただ、時間的にも金銭的にも、ねえ? 私も働いているんですけど、こんなご時世ですから進学資金を貯めることにも、これからもっとお金が必要になってきますし、余裕もないし、いい話だなとは思いますけど。

「わかります。お子様のことを第一に考えてる。いや、ごめんなさい。ちょっと待ってくださいね。ちょっとだけ、電話切らないで、ちょっとだけ、お願いします……」

 ……え、なんですか?

「……ごめんなさい。ちょっと感動しちゃって、いや、お母さん聞いてください。僕はね、感動したんです……。グッときた。だって、僕は色んな家庭に電話をかけるけど、こんなにもお子様のことを第一に考えてる人はいないですよ。みんなお金がない、時間がない、忙しい、二度とかけてくるな! ですよ。でもね、でもね! お子さんが一番大切じゃないですか。かわいいんだから、子供は本当に。だからねお母さん、今以上にやるのではなくて、今よりも楽させてあげられる方法があるんだから、それをお勧めしたいだけなんですよ」

 ……というと、お金はそんなにかからないんですか?

「お母さん。お金だけで考えたら日本で一番かからない教材ですよ。ただうちはね、お金で勝負してるわけじゃないんで、まず中身をみてもらいたいんです。二十四種類のコースがありまして−−」

 アポイントの電話を終えて受話器を下ろすと、隣の席を陣取るセンちゃんが泣きそうな顔で俺を見ていた。唇をへの字に曲げて眉間から鼻の頭の皺を全部中央に集約したままポツリと、今日何軒目なの、とこぼした。
 何件目とは? と一瞬だけ考えた。十八時にオフィスにきて今はまだ四十分しか経ってなくて、リストの件数は十七件までチェックが入っていて、チラシ裏のミミズ書きの落書きの合間に挟まれた客先情報を後でまとめてパソコンに打ち込む時間を加味しても、まだまだ電話をかけなければならなくて……とそんなことを考えて、センちゃんをノートをチラリと覗き見てみた。

「センちゃん、電話あんまりかけてないね」

「ごめん……なんかやっぱり向いてないかも。断られてばっかりで怖いしさ、カワくんみたいにうまくできないよ」

「これね、コツがあるんだよ」

 ふへへと程度の悪い笑いかたをしてしまって、ああ、しまったなと慌てて辺りを見渡すのだけど、幸いにも誰にも気づかれてはいないようだった。
 コツ? と聞かれて、うんあとで教えてあげる。教えてほしい、私にもうまくやれるかな。大丈夫だよ、そこは任せてよ誰にでもできるよ。すごい、頼りになる。そうだろそうだろ、任せて。うん、すごい。

「うん、だから今日はもう少しがんばろう。大丈夫だよ、ただ電話をかけるだけなんだから」

 ウイスキーのボトルキープがあったはずなんだけど、というおじさんの声に反応した若い男の店員が、俺らに背を向けたまま背伸びをして埃っぽい棚から実際に埃を被ったままの角瓶を手に取った。振り返る即座に袖口で軽めに落とした埃が舞って、生意気な新米マジシャンが年寄りの手品師に教えられた初歩の技を失敗した際に、教える側の才覚の無さを責め立てたのち縁を切り、俺はこんなとこで燻っている男ではないと単身アメリカに渡ったのはいいのだけど、言葉や文化や人種の壁に打ちひしがられて誰にも相手にされずノイローゼになり帰国して訪れた町医者に処方された怪しげな粉薬のような白い汚れが袖口に張り付いていた。
 バイト上がりに訪れた駅地下の居酒屋で、店員さんを目で追っている俺を目で追うセンちゃんは誰がどうみても疲れていたし、一緒にいても決して楽しいタイプではないのだから、できれば早く家に帰ってしまいたかったのだけど。ただ、どうしようもなく弱々しい犬っころが放つような甘い声色と視線を一度向けられてしまえば、見捨てることを忍びなく思えるほどには図々しく賢しいところがセンちゃんにはあった。節電のために落とされた照明の薄暗さを、居酒屋の黄色電球は色彩こそ違えど明度はそんなに変わらんのやなあとぼんやり思う。

「センちゃん、食べて食べて」と俺は声をかける。運ばれてきた唐揚げとエビチリを小皿に分けてセンちゃんの目の前に並べると、あ、ごめんね。ほんとうち気がきかんで、女の子なんやからちゃんとせんなんっていつも思うんやけど、なんかやっぱり頭でわかっててもうまくできんくて、いっつも人のことばっか見てしまって、なんでやろ。ほんとうまくできんくて。もしかして、迷惑なんじゃないかとか、私にそんなんされても誰も喜ばんやろって、そう考えること自体自意識過剰なんやろうけど、でももしほんとにちょっとでも嫌な顔されたり、嫌な顔っていうか、微妙に迷惑な反応されたりしたらどうしようとか、色々、考えてしまってなんにも動けんくなるんや。なんにも出来んくなるやって。

 


お肉かお酒買いたいです