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二度目のハルニ–後編




「何か飲む?」と僕はヨシちゃんを促してみる。「コーヒーでよかったら今豆を引いたところ」

 僕の言葉にヨシちゃんは心なしか安堵の表情を滲ませたように見えた。続けて、「ミルクも砂糖もないんだけど、大丈夫?」と聞いてみる。

「うん、大丈夫。ありがとう」

 丁度コーヒーは二杯分ある。暖かいうちに楽しむ分と、冷めた後でも構わないからと横着した分の二杯目をマグカップに注いで渡した。受け取って一口すすったヨシちゃんは、「おいしい」と一声漏らした。

「安い豆なんだけど、ザラメぐらいの大きさで粗挽きにするとこんな味になる」と僕も一口コーヒーを飲む。うん、とても美味しい。でもきっとヨシちゃんの好みの味ではないだろうなと思う。

 僕の言葉にヨシちゃんは少しだけ顔を伏せて、もじもじと両の太ももを擦り合わせた後でデニムパンツの生地に空いている左手を這わせた。手汗でも拭いているのかなとぼんやり眺める。

「こんな時にさ」とヨシちゃんは言う。緊張が眉間の皺で見て取れる。そのまま続けて声を絞り出すように、「部屋にあげるのは違うんじゃないかなあ」と非難の色を滲ませた声で言う。

「こんな時とは?」と僕は返す。言いながら、会社でも同じような返答をしている自分を思い出した。この一言で通用すると一度決めてしまうと、何を問われても同じ返答しかしたくない自分がいて、おそらく僕は親切という言葉の意味とはかけ離れた人間だろうと思う。とても偏っていてタチの悪い、真っ当なコミュニケーションが測れない惨めな生き物。

「<バイバイ>ってなに?」唐突にヨシちゃんは声を荒げた。そんな自分に戸惑っているかのように呼吸を整えている。どうやら胸に仕えた遺物を取っ払うことに集中しているようでいて、そんな自分自身の感情の発露を一度許してしまった人間だけが陥るだろう表情をしている。つまらない発見だと感じるのは僕がもう、随分とくたびれてしまっているからに違いない。

「日勤が終わってラインを見たときに、フラれたって思った。悲しくて辛くて泣きたくなった。でもしばらく時間を置いてからこう考えた。フラれたんじゃない。もしかして君に今。何かとっても辛いことがあって心が参ってるのかも知れないって。そうだとしたら、<バイバイ>って言葉が文字通りの意味だったら、もしかして、自殺? とか考えて、居ても立っても居られなくなった。だから今ここにいる」

 ヨシちゃんの声は次第に涙声になり、半開きの口元と視線の強さを頼りにすれば、それは段々と怒りに舵を切ろうとしている最中らしいとわかった。

「ごめんね」と相槌を挟んでみる。

「……なんで、そこで謝るかなあ」

 吐き出した大声を自分自身で諌めるように、ヨシちゃんは言葉を繋げた。

「ねえ、本当は引いてるんでしょ? 住所も教えてないのになんで自宅知ってるんだって、そう思ってるんでしょ。調べたんだよ。気持ち悪い女って思われても仕方ないことしてる。現職の警官なんだよ私。いくら緊急避難なんだって自分を誤魔化したところで個人情報保護法とストーカー規制法のダブル違反だよ。それでもさ、それでも動くしかなかったんだって」

「引いてないよ。大丈夫」と僕は言う。「家まで来た人は初めてでちょっとビックリしたけど、ほら、僕酔ってると誰にでも住所言うから」

「なにそれ」と言葉をゆっくりと吐き出したヨシちゃんは顔をあげて僕の目を見た。「好きって言ってくれた。だからその言葉だけを頼りにここまで来た」

「心配いらない。自殺なんて今まで生きてきて考えたこともないよ、そんなに繊細には作られてない」と僕は笑ってその目を見つめ返す。「好きって言葉も誰にでも言うんだよごめんね。ちゃんと好きだよ。でも愛してない。もう一杯飲む? それでコーヒー飲んだらさ、もう帰った方がいい」

 その一言でヨシちゃんは、「なんで」と漏らした数秒間の沈黙の後にとても苦しそうな声を出した。「なんで」ともう一度繰り返す。こんな時に何を今更とは思うのだけど、頭を撫でてあげたい衝動に駆られてしまう。大好きだよ、いいこいいこ。ってハルちゃんの頭を撫でた時のようにしてあげたくて迷う。女の子はみんな子供みたいで、とてもかわいい。なんだか僕まで悲しくなる。

「私、結婚してる。子供もいる」

「うん」

「もしかしてわかってた?」

「もしかしてって話なら、なんとなく」

「離婚調停中」

「それは、今知ったよ」

 言われて僕は笑った。壮大なネタバラシの場面なのに、不思議と違和感がなかった。正確には違和感の正体が合致した気でいた。それはきっと、昼間のデートしか提案されなくても、しなくても。ただの一言の文句もなく受け入れ続けてくれていたからだと今更ながらに思う。ヨシちゃんには子供がいて、僕には夜にはもしかして戻ってきてくれるかもしれないハルちゃんがいる。

「言い訳もさせてもらえない? 言えなかった。嫌われると思ったから。本当は最初のデートで打ち明けるつもりでいたんだよ。でも好きになったから、なっちゃったから。嫌われるのが怖くて言えなかった」

「嬉しいよ。気持ちもわかる」と僕は笑う。あんまりにも僕が可笑しく楽しげに笑うものだから、力のない声でおそらく釣られて笑うしかないヨシちゃんは、対照的なほど大袈裟に肩を上下にあげる動作を呼吸と共に繰り返している。

「……私の他にも女はいる?」

「うん。何人かは」

 正確には何人かは、いた。でもヨシちゃんは何人かはいると解釈したようだった。訂正する気にはなれなかった。

「一度、結婚に失敗した女に価値はない?」

「そんなこと考えたこともない」

「女の体は神聖なものだと認識してる? 性欲だってない。誰でもいいからしたくなる日があるなんてこと、想像もできない? それでも私は君を好きになった。それじゃダメ? ねえ、私は君を受け入れることができるよ。こんなにも寂しい人を放っておけないよ。どんなに辛い過去があっても。愛した人とうまくいかなかった過去があってもいい」

「よくわからないよ」と僕は言った。「ヨシちゃんは例えば、過去に犬を捨てたことのある人を愛せる?」

 反射的に沸いた苛立ちを覆い隠すように一呼吸置いた後でヨシちゃんは「……何が言いたいの?」と聞いてきた。ちょっと怖かった。

「何人もいたよ。僕のことを好きになってくれた人は」言いながら、とても意地の悪い笑いかたをしてしまった自分に気がついたけれど、お構いなしに続けて話した。「かわいそうな人、寂しい人、愛してる。ずっと好きだよ、他にこんな人いないよ、特別な人。ってみんな同じ事を言うよ。僕は全部聞いたことがある。本当みんなして同じこと言うから笑っちゃう。オリジナルの言葉なんてなかった。もしかして気持ちはオリジナルだったかも知れないけど、でも結局はみんな離れていった。だからもう無理に話さないほうがいいよ。どうせ半年も経たずに嘘になる。嘘をついた自分を嫌いになりたくなくて代わりに僕を嫌いになる。かつて好きだったことを、そんな自分を恥ずかしいと思うようになるよ」 

「もういい……」とヨシちゃんは低い声で呟いた。どうやら本当に怒っているらしかった。こういうことはたまにある。話がしたいと言われて素直に今自分が考えていることを話す。すると彼ら彼女は必ずと言っていいほど怒ってしまうのだ。その理由は僕にはわからないし、仮説でよければもう随分前、子供だった頃には立てている。今更ながらにどうでもいいとも思う。疲れるだけだ。だけど、言われた瞬間にハッとしている言葉もあった。おそらくはそうだ。僕もきっと同じ身体の構造を模している。誰でもいい。誰でもいいと思ってしまう夜がある。それが辛くてたまらないのだ。誰でもいい。ハルちゃんの代わりができるのであれば。

「裸で抱き合って眠ってさ、朝目が覚めてタバコを吸いにベットから出るんだ」

 なんの話? と言いかけただろうヨシちゃんは、「なんのは……」と言ってから黙り込んだ。僕は笑いながら続けて話す。それからなんの気無しにタバコを取り出して火をつけてみる。どうせわかってもらえないだろうに、話し終えた後に惨めな思いをすることはわかっているはずなのに、とまた少し笑った。

「ハルちゃんは僕に、どこに行くの? って聞いてくる。ハルちゃんは朝が弱いから寝ぼけた顔のままなんだ。僕はタバコを吸いに行くよって返す。そうして頭を撫でて、ほっぺにキスをする。されるがままのハルちゃんは行かないでって、小さな声を出してからそっと背中を向けて、拗ねた声色で布団に顔を埋めたまま今度はこう言うんだ。私も一緒にいく」

「……」

「汚いところもある。姑息で卑しくて嘘つきで意地っ張り。怒られることがとにかく嫌いだから論点ずらしで自分のことを棚に上げるんだ。今はハルちゃんの話をしてるのに、気がつくと僕が責められてる。嫌われたくなくて、でもどうしても納得できないから不満を伝える。そうすると、なんで責めるの? その話ずっと続けるならもう無理だよってまた濁らせるんだ」

「……誰の話?」

「恋人だった人の話だよ」

「……もしかして馬鹿にしてる?」

「いや全然。なんで?」

「こんなときに元カノの話するなんて、どう考えてもおかしいって。ねえ、その女はさ、今頃きっと他の男に腰振ってるよ。ヨダレ垂らして尻尾振って、今までの過去なんてないなんて風に違う男に抱かれてる。それが普通でしょ? 君のことを好きだった人は君を嫌いになるんでしょ? そんな自分を恥ずかしいと思うようになるんでしょ? 自分でそう言った。普通はさ、別れて半年も経たずに違う男と付き合ってさ、またうまくいかなくなって別れる。そうやって次々に人を好きになって付き合って、適齢期になった途端に結婚したりする。子供も産まれて毎日が忙しくなってささやかな幸せを手に入れてさ。旦那との夜の生活も段々なくなってさ。気がついたらまた誰か他の男を目で追ってこそこそと浮気なんてして。そんな程度の女なんだって気づいてるでしょ? ていうか、別れたんだったらそう思うぐらいしてみなよ。そんなのおかしいって、他人からみたら滑稽で、気持ち悪いことしてるってわかってるんでしょ? 断言してもいいけど、君の元恋人は君のことなんて何も考えてないよ。気持ち悪いとさえ思ってたのも別れてからしばらくの間だけで、今では心底どうでもいいって思ってるよ」

「うん。わかってる。でも幸せになってほしいんだ」

「君のことが嫌いなのに?」

「うん。二度と会えないけど、全部宝物なんだ。だから愛だったと思う」

「わかった」

「ごめんね」

「……酷いね。本当に酷い。どんな気持ちで私がここにいるかなんて心底どうでもいいんだね。服を選ぶ時も下着を選ぶ時の気持ちも馬鹿みたい。君に会いにいくことがどれだけ勇気のいる行動だったのかも全部君にはどうでもいいことなんだね」

「うん。ごめん」

「今まで女友達にされてきたクソ男の相談にさ、私は全力で反対して別れさせてきた。でも、こんなこともあるんだね。自分が経験して初めてわかった」

 ヨシちゃんはそう言って玄関に向かった。引き戸を明けて、振り向いた時にはとても冷たい目をしていて、僕に向かって鼻息をフンッと鳴らしてから、「元気でいてね」とそう言った。


 日々の彩りを液体に染み込ませて胃に流し込むアルコール。それを血流に溶かしている内に春は過ぎてしまっていて、飲んでいるはずのアルコールに肝臓の処理能力が追い付かなくなってきていることに気がついた頃、季節は梅雨を迎えていた。
 たった一人の部下はその間も僕に、僕自身の社内評価を噂形式で教えてくれている。
 繁忙期のある日、他部署の役職者との打ち合わせがあったとき、会議が終わった後で、「どうして」と他部署の男に言われた。
 
「どうして社内行事に参加しないんですか」と。

 言うに、退職した女性社員の送別会を部署間の垣根を超えて有志を募り取り行った中で、なぜあなたは来なかったのだ? といったことらしい。他にも数多ある慶事や細々とした内輪の行事に、なぜただの一度も参加しないのかと。
 公式行事では決してないのだから、特段問題があるわけでもないけれど、こんな話は今まで聞いたこともない。思わず部下に確認してみた。

「知ってた?」

「知ってましたよ」

「知ってたけど行ってない?」

「行ってないっす。誘われてないですから」
 
 頭を抱え込んでしまった。「僕のせいで迷惑かけてごめん」と言いかけたのだけど、ここで謝ってしまうことも違うと感じた。既に起きている問題を今まで手付かずの状態で放置していたのは僕だ。そうして僕はこの問題の解決方法を知っていたし、誰かを排除することができるのならば最初からそうしている。面と向かって何人かの前で特定の個人を糾弾すればいい。ただただ求心力を保つためだけの論理を展開させればいいだけなのだ。例えその対話で彼が恥をかき居場所を追われてしまったところで僕の心はちっとも痛まない。
 ただ、彼の家庭で過ごしているだろう子供のことや、その後の家庭境遇を思うと躊躇してしまう僕がいる。能力がない人間が必死で築き上げてきた土台を壊すことに正当性はあるのだろうかと考える。小さな子供が何人かいるらしい彼に、能力のない彼に、職場で立場を追われた後にどのような変化が起こるのかはわからない。わからないが、必死で守ろうとしているオモチャを取り上げることなどと考えるとため息を吐きたくなる。本来ならばたった一人の部下を優先して考えなければいけない状況ではあるはずなのにとそう思う。僕は要するに、自分のプライドが一番大切な人間なのだろう。

 結局何も行動しないまま、季節はあっという間に夏になった。とても極端なものだと思う。今までは陰口の対象者だった僕にも他部署の社員たちは気軽に話をしてくれていた。それが今はどうだ。日を追うごとに距離を置いて話もしてくれない社員が増えた。
 わかってはいることだけど、心のどこかではやはり不思議に思う。真っ当な人間たちだとは思うのだけど、彼ら彼女らは皆、会社とプライベートを完全に切り分けることに成功しているのだろうかと。恋人や配偶者を抱くときに、時には自身の命よりも大事だと豪語する子供を抱きしめる時。どんな表情と声色を使うのだろうか。

 夏が半分過ぎた時分になったある日、終業の時間を超えても帰る素振りを見せない部下が話しかけてきた。「この後一杯どうですか?」
 表情を確認してみても特に問題はなさそうな気がした。思い詰めた様子でもなければ、目に色が滲んでいるわけでもない。淡々と、気怠そうな態度のままそう問いかけてくるので、「いいね。行こう」と返事をして会社を出た。

 まだ日が落ちきっていない夕暮れの街で、一度行ってみたかったと言うクラフトビールの店に入った。真夏の名残がコンクリートからも室外機からも立ち上ってくる暑さにうんざりしながら歩いていても、店内に入りおしぼりで手を拭いた途端に汗がすっと引いてくる。

「ビールの種類いっぱいあるね」と僕が言うと。「そうなんす。ここ気に入ってくれそうと思って」とそう返してくる。

「元気なさそうなので」ともう一度気遣いの言葉をかけてくる。気怠そうな雰囲気はそのままに。注文をさっと終わらせてからつまらなそうに言う。

「わたしって冷たいですかね」

「さあ、どうだろう」と僕は返す。

 何を言いたいのかはわからないけれど、あんまり深堀したくない言葉の選択だなと思った。部下に笑みが浮かんでいても、次の瞬間までこの手の話題は予測ができない。

「たまにですけど。イラッとするんです」と部下は言う。「あたし、洗脳されてるんですって」

「そうなんだ」

「驚かないんですか?」

「学生の頃からよく言われてきたから」

「腹立ちません? あたしは立ちますよ。くだらないことばっか話しやがってって。そんな自分にも腹が立ちます」

「申し訳ないとは思ってるよ。ごめんね」

「自分が悪くないのに謝るの、よくないっすよ」と部下はそう言って、付け足した。「全然悪びれてないところもよくないっす。本当は自分が一番正しいって思ってるんですよね」

「わかった。うん、聞くよ。愚痴全部話して」

「一晩で足りると思ってんすか」

 とてもわかりやすい嫌味に二人で顔を見合わせて笑った。普段同じフロアで働いているのに、こんなにも無邪気に笑った顔を見たのは初めてだった。
 運ばれてきたビールを一口飲んだことを皮切りに、話し出した会話は仕事の愚痴、待遇の愚痴、僕への愚痴だった。その中に特定の個人に対するものが、僕以外への愚痴がなかったことが素直に嬉しかった。

「どんだけ嫌われててもあたしは好きっす。人間として好きです。別にまだ酔ってないですけどね。そこんとこだけを今日は覚えて帰ってください」

「若手芸人みたいに言うじゃん」と笑ってから、「僕も好きだよ。ちなみに僕は酔ってるけど明日セクハラで訴えないように」

 何杯か飲んだ後、二人で店を出て歩く道すがら。「あたし、こう思うんす」と彼女は話し出した。頬が赤く、ほんの少しだけど呂律が怪しかった。

「信用してる。とか、そんなこと言わないからちょっといいですよね。信用してるは、裏切るなだし。受け入れる、は受け入れてくれってことです。裏切られたくないからってその手の言葉は吐いちゃダメなんす。あたしはそう思うんす」

 彼女はさもつまらないといった口調のまま真面目な顔で言った後、「じゃあ、明日もまた」と駅の入り口の前で歩きながらそう言った。僕は僕で立ち止まり、「うん。また明日」と手を振った。
 
 別れた後で代行を呼び自家用車を引き連れて自宅に戻った。部屋に入った途端に今日あったことを誰かに話してみたい衝動に駆られた。「部下の一人がさ、ちょっとだけ嬉しいことを言ってくれて。自分でも単純だと思うけど、いい気分なんだ」と。「日常ってさ、一日の積み重ねの日々のことなんだ。だから毎日がこんなにもつまらないのも、それが当たり前で幸せなことだからそう思うんだ」と誰ともなしに喋ってみる。

「よかったよ。本当は今日も誰もいなかったんだけどさ。うまく生きることができた」と話してみる。

「定期的に店のスタッフがやってきて怪訝な顔をするんだよ。だからこっちはちゃんとイヤホンも付けてさ、一人で飲んでるけどちゃんと話し相手はいるんだってアピールもしてんのに。他のお客さんなんてあんまりいない店だよ。平日だし、クラフトビールの店っていったところで量も少ないし割と高めの設定価格だから流行ってないんだって。店の入り口で最初店員さんに、二名です。って答えたけどさ、そろそろお連れ様は来られますか? ってずっと責められてさ。参ったよもう」

 二階の自室にある冷蔵庫を開けると中には何も入っていなかった。仕方なしに一階のキッチンまで降りて、常備していた日本酒をマグカップに並々と注ぐ。早く酔ってしまいたい。気が狂わないように、早く。もっと早く。

「いや、本当びっくりだよ。まさかね、部下にも愛想尽かされてさ。辞めることも知らなかったし。ましてや送別会があったなんて、呼ばれなかったなんてさ。そんなにもま嫌われているなんて知らなかったから。言ってくれよって思うのは難しい注文だよね。きっと言えなかったんだ。まあ、仕方ないんだけどね。多数派工作に抗える人間なんていないんだから。そこまで自分に自信のある人なんていないんだって。意思が弱いからみんな。本当参っちゃうよ」

 日本酒を胃に直接放り込むように流し込んでみる。食道が熱を持つ。胃に落ちると熱さは感じないが、鳩尾のあたりがキリキリと痛み出す。でもそんなことはどうでもいい。僕はもう、酔いに任せて捲し立てて話す他に感情に抗える術を知らない。

「……ヨシちゃんは惜しかった。ヤっときゃよかったってたまに思うよ。なんであんなに冷たい目でさ。人を好きになる気持ちは僕だってわかるよ。わかるのに。わかるんだって。でも、確かにそうだ。誰でもいいって思う時がある。電話すればいいかな。ごめんね本当は好きだよ。怖かったんだよって言えば最初は怒っててもすぐ仲直りできるよね。嬉しかったのは嘘じゃないよ。会いたいなんてラインきたら嬉しいに決まってる。僕も確かにここに存在してるって思えるから。なんて、くっだらんね。すぐそうだ僕は。誰かの幸せなんて関係なく自分の欲だけで動こうとする。人を壊して回らんだ。きったないしくっだらんしつまんない人間だ」

 一旦深呼吸をしてから、天井を仰いでみた。「ハルちゃん」と呟きそうになって慌ててやめた。ダメなんだ。もうその名前を出すこともやめなくちゃいけない。

「本当に気持ち悪いよね僕は。本当に本当にそうなんだ。自分でもわかってんだ。たった一つの恋なんだって自分に言い聞かせているだけ。だってそうじゃん。そうだろう。生涯この人と一緒に生きていきたいって思ったんだ。それは間違いないんだって、その気持ちに間違いはなかった。一生って長いよ。きっと長すぎるぐらい。そんな人と別れた後で半年も経たずに誰か他の人なんて僕には考えられない。数年間は引きずるのが当たり前だろうよ。他の人はいい。どうでもいい。僕は、僕だけはそこを間違えちゃダメなんだって」

 呼ばれなかった送別会、誰も声をかけてくれなかったことが哀しくて仕方なかった。大の大人が、社内の人間からは随分と嫌われてることは知っていたけれど、ただそれでも部下だけは違うと思っていた。思い出すと惨めにも泣き出してしまいそうだった。

「格好悪いからな、僕」と囁いてみる。

「いい音楽も書けないし弾けない。歌もうまくない。人間関係で足を引っ張られてもそれを跳ね除けられるほどの能力と根性がない。人に好かれても持続させられるほどの魅力がない。もういい加減嫌になってくるよ。もちろん自分自身のことだよ。一体何人いると思ってんだよ。彼氏持ちに、旦那持ちにさ、好きですなんてさ、言われてさ。わかるよ、わかるけどさ。お前らはアレだろ。幸せじゃないか、裏切ることを許せる人間じゃないか。僕が考えないわけないだろ。この人と一緒に生きたらどんな人生になるんだろうって。考えないわけないじゃんよ。嘘だって決めつけんなよ。傷つかないはずないだろ。誰でもいいって、そう思ったりしちゃうんだよ」

 ヨシちゃんにしても他の女にしても、好きでもない女と暇を潰すために一緒にいたわけじゃない。ただ、好きには違いがなくても、これからきっと、もっと好きになれるだろうか?と、そう思ってしまうことは、疑ってしまうことは果たして悪いことなのだろうか。責められて然るべき悪なのだろうか。
 ダメだよと、そう言って欲しい。怒ってほしい、嗜めてほしい。ハルちゃん。ハルちゃん。
 
「今日さ、夢をみたよ。随分久しぶりの夢だったよ。恋人だった時によくみていた例の夢だ。夜中にラインが来てさ、慌ててチェックして返事を返す。ただそれだけの夢だよ。大抵はさ、朝起きたらラインなんて来てないんだって。だから懐かしくて嬉しくて、もう消えちゃいたいって思ったよ。そんな夢を今日見たよ。ラインにはさ、<元気?>ってそれだけ。それだけで僕はもう犬みたいに喜んじゃってさ。何かきっと嫌なことがあったからくれたラインだろうにさ、嬉しくて。目が覚めて、もしかして正夢なんじゃないかってスマホを見て、我に返るんだ。馬鹿なんだ僕」

 今日も随分と酔ってしまった。だからきっとうまく眠れるだろうと思う。冷蔵庫の中には何もない。部屋は汚れたまま。読みかけの文庫本ばかりが積み上げられたテーブル。空のペットボトルが地面に何本も転がっている。

「大丈夫。大丈夫」そう呟いてみる。

「大丈夫だよ。うまく生きていける」もう一度呟いてみる。

「誰にも迷惑かけないよ。大丈夫。特にハルちゃんには絶対に。生まれ変わっても探さない。もう二度と会わない。そう思うことで自分の感情を許してるだけなんだ。大体、こんな気持ちもいつか消えちゃうんだって、そんなことわかってるんだよ。毎日毎日そう考えているんだよ、ハルちゃん。ごめんね」

 酔いが回りすぎて目が回る。時計を見ようとスマホを手に取るが文字がグルグルと動いて焦点を合わせることができなかった。これではシャワーを浴びることもできそうにない。だから今夜はもう眠ろう。明日の朝にシャワーを浴びよう。もう眠らなくちゃいけない。何事もなく明日を迎えるために。

「大丈夫、うまく生きていけるって、そう思う」と呟いてみる。音だけが部屋の空気に溶けていく。発音もうまくできてはいない音だ。だから、もう一度、酔っているのだと自分で自分を許してみる。明日になればとそう思っている。思っているんだ。

「ごめんねハルちゃん。二度目の春に」

お肉かお酒買いたいです