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二度目のハルニ–中編


 誰か一人の影響でこの世界が劇的に変化することなんてあり得ないとはわかっているのだけど、会社での居心地は月日を重ねる毎に悪くなっている。たった一人だけの部下が教えてくれる情報を頼りにすれば、陰口の首謀者は荒郁さんを筆頭に若干数いるらしい。言われるまでもなく知っていたし、陰口の横行を許してしまっているのも僕なのだけど、改めて他人の口から言われてみるとあまりいい気分ではいられなかった。
 社内の廊下ですれ違っても挨拶は無視されて、ギリギリ僕に聞こえない声量で僕を嘲笑していることもある。気まずそうにしてくれているのならばまだ可愛げもあるのだけど、どうやら先方にその意思はないらしい。一体全体僕の何が気に入らないのかがわからないが、こういう経験は初めてではないのだから仕方のないことなのだろうと思う。
 
 以前飲み会で荒郁さんに「会社にとって優秀な人材はどんな人間だと思う?」と問われて、「あんまり考えたことないですけど、お金の流れを理解している社員でしょうね」と答える。


 全くわかってない、と鼻につく笑い方で周りの人間に同意を求めて糾弾してきたのも彼だった。

「誰が忙しそうにしていても気にならないってお前話してたらしいな。おかしいだろそれ。そんな男に誰がついていきたいと思うよ」

「人間性の話は置いときましょうよ」と僕は言う。「時給換算したらわかりやすいですよ。最低賃金ギリギリで働いている人間と、役職がついて時給が高い人間。やるべき仕事は自ずと違うんですから、雑務や細々とした商談は安い賃金の社員に任せておけばいいと思いますけどね」

 荒郁さんはため息を吐きながら、「お前とは会話ができないわ」との台詞を残して行ってしまった。

 侮蔑の表情には慣れている。人の上に立つべき人間じゃないこともわかっている。だけど、日本の会社構造が分断性で稼働している以上、推測よりもデータを。対話と行動に基づく結果を鑑みて成果を主題に利益を上げていかなければならない。とそんな風に考えてみたところで会話を放棄した人間を責めるべき合理的根拠を見いだせそうにないし、例え無理矢理にでも論理を組み立てたところで僕の美意識が許さないのだろう。
 能力を合わせろと強制されることは耐え難いが、組織を円滑に運用させるためなのだということも、一応はわかっているつもりでいる。基礎代謝の半数弱を脳に食われる定めに置かれた知的生物であるにも関わらず、その能力の大半は陰口に有用されていることがなんとも情けない。勿論、組織の中で誰が信用できる人間で、誰を排除すべきかどうかの判断材料としての価値はあるのだけど、「あなたに能力がないのは僕のせいではない。足を引っ張らないで欲しい」という思いは消えてくれないのだ。ため息を吐きたくなることを誰か許してくれるだろうか。
 そんな時に僕の頭に浮かんでくるのはハルちゃんだ。
 ハルちゃん、ハルちゃん。と声に出してしまいたくなる自分が、多数派の人間と同じ生き物であると教えてくれる。確かな実感を与えてくれる。
 実際、彼らに説いてまわるのは酷と言うものだ。陰口が有効なツールとして機能している以上、多数派工作で決めることは集団心理に置いて正しい行いであるからだ。それに打ち勝とうとするためには、新たな対抗馬を祭り上げた後に更なる陰口を横行させるしかない。そうして、僕にはそれがどうにもできそうにない。

 たった一人の部下が、「大変そうっすね」と声をかけてくる。続けて、「最初の頃はみんな好きだったんですけどね。メッキ剥がれるの早かったっすね」と。

「本当にね、どこ行っても変わらないね。僕が変わったわけじゃないのに」

 部下はお弁当に入っている唐揚げを口に入れたまま話し続ける。「なんか、あたし思うんですけど。パン屋さんのパンってどれもうまそうなのに選んじゃうのっていつも同じじゃないです?」
 
「そんなの人それぞれでしょ。新商品食べたいよ僕は」

「そうかなあ」

 たぶんですけど、と部下が言って、「たぶんですけど、ずっと会ってないと愛が冷めることってあるじゃないですか。あんだけ好きだった彼氏でも、別れた途端に価値がなくなるっていうか、話さない期間が長くなると、それまでを知っちゃってる分どうでもよくなっちゃうっていうか。たぶんそんな感じなんですよ。元々考え方がズレてると多数派の意見に流されるっていうか戻っちゃう、みたいな?」

 それが本当だとすると僕はきっとこの先の人生に置いて惨めに生きるしか選択肢がなかった。
 冗談みたいな日々が重なったある日、会社の近くの教会で結婚式が執り行われた。ブナの木? わからないけど大きな木に彩りよく印象的に飾り付けられていて、喧騒の合間を縫うように手製の木造ブランコに女の子が空を蹴っていた。
 たまらなくなった。思わず誰かと連絡を取りたくなった。ハルちゃんじゃない。ハルちゃんは当事者だから選べない。そもそもが連絡ができる相手じゃない。
 迷った結果ヨシちゃんにラインを送ったのだけど、返事が帰ってきたのは翌朝の九時を回ってからだった。たまたま休日だったその時には僕はフライパンでホットケーキを焼いていたし、随分と気分も落ち着いていた。それに、コーヒー豆を削るために忙しかったから結局返事を返そうという気分になれたのは昼飯をすっかり食べ終えたときだった。「何にもないよ」と連絡を返した数分後に突然家のインターホンが鳴って、玄関の引き戸を開けるとヨシちゃんが立っていたので驚いた。
 
 あまり頭を働かせずに部屋に上げると「こんな時に笑って部屋にあげてくれるのは違くない?」と困惑の色を残したままヘラヘラと聞いてくる。
「こんな時とは?」と僕は返す。
 一瞬迷って、ヨシちゃんをキッチンにまで案内させて椅子に座らせた。僕はシンクに体重を乗せるように尻をつけて立ち上がったままヨシちゃんの表情を読む。今の今まではヨシちゃんはとても遠いところにいるのだとばかり思っていたのだけど、実際には僕の想定よりも早く、深く僕の陣地に攻め込んでいたのかもしれない。それとも僕が何も考えていなかったとか。

お肉かお酒買いたいです