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眠る前、君は必ずリップバームを

 いつまでも覚えていたい温度と色がある。忘れないでと言われたけれど、きっと迷惑だろうから、すぐに忘れてしまったことにしようと思う。今までの経験から考えて、実際すぐに忘れてしまえる人間だとも思う。

 友達の喧嘩を仲裁もできずにオロオロと眺めている時だとか、夕食に人を招いた時に炊くお米は一合がいいのか二合がいいのかどうか等。散々迷った末に結局何も選ばずに逃げ出したくなる気持ちに似ている。そこまで意思の強い人間ではなかったということだ。

 大人になった今、乗り越えてきた失敗談と、数少ない成功体験を身にまとい自信を表情に滲ませてしまえば求心力を得ることは容易いことだったのだけど。優柔不断な性質をひた隠し、取り繕うことに成功したと言っても点数に直せば八十点で、未だに小さなポカをやらかしてしまう。
 ある人はその迷いを、あなたの良心の発露だと肯定的に受け止めてくれるが。気をつけなければいけないことは異例の事態を如何に関わらずにやり過ごせるのかどうかということ。これができなければ、咄嗟の判断力に欠ける男だと消えない烙印を押されてしまう。

 所属してきたグループでの経験が生きている。学生時代は感情に寄り添い。体育会系の部活動では才能で、社会人になってからは論理と感情の調和を重んじることは勿論のこと、時に偏った物言いと、結末に行き着くまでの道程を理路整然と話すことによって発言力を高めてきた。
 要するに、バランス感覚に長けているのであれば、誰であろうと誰かの特別になれる。これは、ただの逃げの一手なのだと自嘲する夜もある。

 すなぎもを二本と牛タン串を三本追加注文した。だし巻きたまごに醤油を落とすと、作り物のような造形の黄色の凹凸に、少しずつ黒色が侵食していく。
 冷酒を煽るように飲むと、視界がぼんやりとしてきた。だし巻きたまご卵の美味しさは黄色、味付けは黒。お酒は透明。

「色ってのはさ。もっと独立して捉えるべきなんだよな」とひとりごちてみる。

「久しぶりやねえ。顔出してくれて嬉しいわあ。これ好きやったやろ。サービスサービス」とマスターが声をかけてきてくれて、梅わさを差し出してくれた。梅干しとワサビの塊を海苔に乗せて巻いてみる。赤色の果肉に緑が混じり、黒色に包み込ませる。口に入れるとあまりの酸っぱさにぐい呑に手が伸びる。

「今日は一人なんやねえ、珍しいなあ」 カウンターごしにマスターが声をかけてくる。
 マスターはこの居酒屋の店主で、地元に帰る度に店に通う俺を贔屓にしてくれている。

「仕事もあるし明後日には戻りますよ」

「バリバリ働いてんねやろ? かっこいいなあ東京のサラリーマン。随分と稼いでんちゃうの」

「どうでしょう。同年代の平均年収ぐらいですよ」
 言い終えてから、気取った言い回しだったかなと少し焦る。マスターの顔色を覗き見ると、ニコニコと笑ってくれている。これでは表情を読むことはできそうにない。
 大学に入学するために上京してからも、卒業して現地で職を見つけてからも、地元に帰る度にこの店を利用してきた。年に一度のペースで高校時代のクラスメイトと集まるのも決まってこの店だった。だからこそ、様々な思い出が壁にかけられてくたびれたメニュー表のように黄ばんだまま鎮座しているように思える。

「マスター。熱燗ください」

「あれ? 前は熱燗苦手って言うてたやん」

「もう充分に大人になったんですよ」

「なるほどなあ、時が経つのは早いなあ」

 だし巻きたまごを箸で崩してみる。ほんのちょっとした時間なのに、醤油をかけた箇所が変色して茶色くなっている。

「ほんで。なにがあったん?」

「なんですか?」

「いやあ、なんちゅうか、けったいな顔してるで」

「けったいっておもしろい言葉ですよね」

 もしかしたらマスターのアンテナだけにしか受信できない負のオーラが俺の体から発生しているのかもしれない。
  もしそうだとするのならば、発生した負の質感はどんな形をしているのだろう。空気のように形なんてないものかもしれないが、認識できるということは色や匂いがあるのかもしれないし、電波のような性質の信号だとしたら、受信するときの感覚とはどのような種類のものだろう。そんなことを回らない頭で考えてみる。

  アルバイトの女の子がすなぎもと牛タン串を持ってきてくれて、まだ二本しか吸い殻のない灰皿を交換してくれた。
 すなぎもを頬張ると焼きあがったばかりの感触が唇に触れて熱い。火傷に気をつけながら噛み締めてみると、肉汁の美味しさに自然と頬の筋肉が緩む。


 母親に似ている女がとにかく苦手だった。というよりも、付き合った女に母親の面影を感じてしまう瞬間を見逃せずに許すことができなかった。
 母は、親族内でも町内でも評判の、美しい人だった。美貌を維持するための努力を惜しまず、年相応という言葉を知らない女でいて、子供の俺から見ても言動が常にかわいらしく幼かった。
 出生前診断によって、生まれてくる子供が男だとわかったときはがっかりしたのだと聞かされた。しかしながら、母親の容姿を色濃く反映させた俺が生まれてしまってからの母の心血は、すべて幼い一人息子に注がれたのだそうだ。

 幼少期の頃の記憶をほとんど思い出すことができないのだけど。アルバムを覗くと幼い頃の俺が大量の写真に納められているのだから、可愛がられていたのは間違いなさそうだった。ただ、いつ開いてみても懐かしいという感情が湧き上がってこないでいる。他人の子供がまだ若い母親の隣で笑っているようでいて気味が悪い。それらの全ての写真には必ずスカートを履いて女装した青白く髪の長い男児が写っているのだった。

「私はさ、とにかくこの世の中の不幸という不幸が全部気に食わないんだよ。どいつもこいつも自分本位に悩んだり悔やんだり、巻き込まれるこっちはたまったもんじゃないよ。どこかで聞いたことのあるありきたりな不幸話なんて鼻で笑ってやるって言ってんの。あんたのことだよ」
 
 いつか幼馴染に言われた言葉を思い出した。再びぐい呑に手を伸ばす。熱燗はすでに空になってしまっていて、もうそんなに飲んでしまったのかと驚いている自分に気がついた。

 成長するに従い母の言うことに疑問を抱くようになっていた。世間一般的に言わせれば、それが成長というものだろう。幼馴染の言葉を借りればどこにでもあるありふれた簡単な物語とその結末だ。

 母は受け入れられなかったのだ。段々と男の匂いを撒き散らすように骨格が大きくなる俺の体に眉をひそめ。臭くて臭くて堪らないのだと文字通り鼻を摘んでなじった。先生に怒られるから髪を切りたいのだと控えめに告げると、人が変わったように大声をあげて、似合わない似合わない、せっかく綺麗に産んであげたのにと涙ながらに訴えてきた。

「ごめん。好きな人ができたんだ」

 幼馴染の彼女にそう告げた夜も、この店で飲んだ帰り道だった。酔いに任せ勢いをつけて深夜に電話をした。卑怯者だとは思うが、顔を見てしまえば言えやしないという確信もあった。できれば、すべて放り出して逃げだしてしまいたかった。

「 ふーん。よかったじゃん」

あまりにも簡素なリアクションに俺の方が戸惑った。感情の赴くままに大声で罵倒されるものだと思っていたから。
「うん。ごめん」
「ひとつだけ言っておく」溜め息を吐き出すように幼馴染は続けて、「うまくいかないよ。誰とも。しばらくは待っててやるから諦めついたら早めに戻っておいで」と言った。

 巻き込んだのは俺なのにと、安心している自分もいる。その言葉が呪縛なのか、それとも見限られたのかどうかも判断できない。一方的な愛になれてしまっているのだから、きっと愛し方すら独善的だろう。選ばれたくて、選びたくはない。何も考えたくはないし、何かを考えている人間の隣にいることが怖くなる時がある。

 ぐい呑みの中で冷めかけた熱燗を喉に流し込む。
マスターはとてもさりげなく、それでも確かにこちらの様子を伺っていて、辻褄を合わせるように追加の一本を注文した。

 詩織のことが好きだった。最初は遊びだったかもしれないが、肉欲を埋める為だけに傷つけていけない繊細な女なのだと認識してからは、今までの女と同じように短期間で手放すには惜しいとさえ思うようになっていた。 勿論、同じ会社にいる従業員通しなのだから別れ方に気をつけなければ社内評価に関わるなあと、姑息な算段があったことは否定できない。

 上京して社会に出てからは全てが上手くいっていた。日々の生活に追われることで、幼少期の思い出も何もない場所で呼吸をしている瞬間が。自由なのだという実感が何よりも嬉しかった。そんな時に現れてくれた詩織には、いくら感謝しても仕切れない。男として生きていくことに違和感はない。このまま、逃げ切ってしまいたかった。できるならば二人で。家庭の色を作らないままの二人で。
 
 年に一度か二度地元に帰った。詩織と付き合ってからは母親と会うことにも、少しずつだが抵抗が無くなっていた。老いていく母の頭を撫でると猫のように目を細めて喜んでくれる。無関心な父は何も言わない。いつだって父は、母の矛先が自分に向けられることを恐れていたのだと思う。

「だからさ。あたしもそんなには待ってらんないわけよ。年齢的にさ」

 呼び出された居酒屋で幼馴染が呆れたようにビールを飲んでいる。帰ってきてるんなら連絡ぐらいしろよと言われれば、どうしても誘いを断ることができなかった。

「ほんと面倒な性格してんのね」

「いや、もう待たなくていいんだ」

「あんたのママのこと知ってんの? その子、詩織ちゃんて言ったっけか」

「まだだけど。話そうとは思ってる。できるだけ軽く、冗談みたいに」

「考えてみなよ。先がないんだってば」

 言われるままに考えてみる。詩織とこのまま付き合い続けていくと、若い二人は近い未来に必ず結婚の話を議題に載せなくてはならなくなる。若い女の美しい時間を独占しているのだから、当然の如く責任を持たなければ男として生まれた甲斐がないとも思う。そうして、その未来を望んではいない俺がいる。想像してみる。俺の実家で、母親の隣で異物のように詩織がぽつんといる風景を。三流のパロディ映画に無理やり潜り込ませたアニメ作品が頭に浮かぶ。うまく想像できる気がしない。

「断言してもいいけどさ」幼馴染は追加の牛タン串を頼んだ後、続けて言う。「あんたのママはその子をきっと気にいるよ」

「まさか」

「よく考えるといいよ」

 それきり幼馴染は話題を変えて、今の職場に女たらしの先輩がいてこの前説教してやったとか、後輩のアバズレ女に懐かれて辟易しているのだとかを、つまらなそうに話していた。

 
 マスターが、「久々に刺身でも食わんか? 本日採れたてなんやでえ」と声をかけてきて、「頂きましょう」と、なるべく呑気な声で頷いた。

 幼馴染に言われた一言を気にしていた訳では決してない。証拠になるかどうかはわからないが、次の日には忘れてしまっていた。ただ、不意に詩織の顔を見た時のことだった。二人で部屋に篭り、まったりとした時間の使い方で映画を見て、感想を伝えあった。どちらかはではなく、お互いのタイミングがカチリとハマり、とても長いキスをしてから朝まで愛を確かめ合った。

 どこか胸の奥の柔らかな部位で、溶けない鉛玉のように存在感を主張してくるものに気がついたのは早朝のことだ。詩織は客観的には可愛らしい容姿をしているが、母とは顔の造形も違う。髪型も服装の好みも違えば、似ている箇所を探すことの方が難しいのだけど。その日以降、何故だか詩織と話をしていると、母親の顔がチラつくようになってしまっていた。何故急にと、その理由ばかり考えた。

 幼馴染に電話をかけた。彼女は、「たまには自分で考えなよ」とぶっきらぼうに言う。

「わからないから聞いてんだろ」

 苛立ちをそのままぶつけると彼女が口にしたのは、「わからないわけないでしょうが」との強めの言葉だった。 
 想定していた言葉が返ってこないことに困惑してしまうのはいつものことだけど。言葉を繋げる彼女の声色に胸が苦しくなった。

「お前はさ、俺のなんなんだよ。お母さんぐらい俺を愛してくれた奴なんていねえよ。みんな口だけだろ。見た目、役職、能力だけだろ? お前はさ、引くに引けなくなってるだけなんだよ。本物の恋とか愛とかを信じて偽物を掴まされたことを認めたくないって面で俺に説教垂れてくんじゃねえよ。ふざけんなよ何を求めてんだよ。もう一度聞かせてやろうか? 母親に泣かれながらスカートを履かせれたんだよ。局部をハサミで切られそうになっても受け入れようとしたんだよ。それが原因で親父に冷めた目で、存在ごと無視され続けたことを。話したろ俺、知ってんだろ。なんでお前は、俺に。でも俺は惨めでも可哀想でもないんだって。お前が言ったんだよ。こんなのはよくあることでありふれた物語なんだって。馬鹿にしてる。お前は俺をずっと、いつも馬鹿にしてる。言わなきゃよかった。言わなきゃよかった。誰にも。普通の家庭で、のほほんと生きてきた奴が見せつけてくるんじゃねえ。ちょっとした不幸を、能力の無さを見せつけてくるんじゃねえ。俺は努力してる。努力したんだって。金も、女も、俺が自由にして何が悪いんだよ」

「あたしがあんたのことどう思ってるかなんて、言わなくてもわかる」そう言い切ってから落とされた電話に憤りを覚えた。そうして次の瞬間、最初に頭に浮かんだ怒りの矛先が、幼馴染の彼女に対してではなかったことがショックだった。なんの気無しに鏡を見てみる。今では全然似てない顔に、母親の目を、眉を、鼻先を探してしまう。そうして、指先で触って確かめるように目を閉じる。
 真っ先に瞼の裏に浮かぶのは、詩織の泣き顔だった。

「結婚しようと思います」

呟いた俺の独り言に。マスターは焼き台の上で忙しなく動かしていた手を止めた。

「家庭を持つってことはなあ。男の一大事やで」

「もう充分に大人ですからね」

マスターは、焼き台から場所を移すと、カウンター内の一番目立つ棚から上等すぎる一升瓶を取り出して見せた。

「結婚おめでとう。実はな。渡せる日をな、夢見てん。先週」

「ははは、すげえ嬉しいけど、いいんですか?」

「いやまだ渡せんな。ツッコミ役が足らんねん。今度連れてきい」

 ぐい呑みを掴む手が震える。今夜は少し飲みすぎたのかもしれないなと思い至る。それから、別れる直前に詩織に渡したプレゼントのことが気にかかった。
 気に入ったと連絡がきて欲しかった。そんなことがあるはずもないのに、未練が残って離さない。そもそもが、封を開けて中身を確認してくれる機会は永遠に訪れないのかもしれない。
 それでも尚、伝わって欲しい。助けて欲しい。詩織と手を繋いで歩く未来のことを考えていた時にだけ俺は、胸の奥の鼓動を確かに実感できた。体が熱くなるのだ。だからこそ、きっと誰にも理解はされないのだけど、自分勝手な結論なのだけど俺は選んだ。二人とも、きっと幸せにしてみせる。だから、どうか笑って欲しい。
 
 その口紅は、俺の母親の嫌いな色なのだ。



読んでくれてありがとうございます旅田さんの作品「欲しいものはどこにあるの」のぼくなり番外編を書かせてもらいました。原作すごく好きで、もうすんごく好きでえぐみ強くて最高でしたぼくは旅田さんのことを親しみを込めて、ももちゃんと呼んでいます。旅田さんのことをフランクにちゃん付けで呼べる男だと言うだけでぼくのポテンシャルを理解して頂けるでしょうか。天才落語家の瀧川鯉八はキャビンアテンダントの知り合いがいるらしいです。つまりぼくにもそのポテンシャルが、まいっちゃう。

お肉かお酒買いたいです