見出し画像

この手を離さないで

「There's no such thing as perfect piece of words. Just as there's no such thing as perfect love」

____________________________________

その日もいつものように駅の西口で彼女と待ち合わせていて、広場には珍しくホットドックの移動販売車が停留し幾人かの学生で行列をついていた。毎度の如く先についてしまった僕がぼんやりと眺めていると「お腹空いてるの?」と背中から声をかけてくる。

「待った?」と腕時計に目をやりながら聞いてくる。「時間ぴったりだと思ったけど」と返事も待たずに聞いてくる。

「いま来たところだよ」

「みんな、そう言うよね」と転がる鈴が鳴るような音色で笑った。

電車を待つ間に普段は立ち寄らない土産物屋を見に行こうかと声をかけると、先に郵送したから必要ないと彼女は応える。仕方なく喫茶店に入りコーヒーを二つ頼んでテラス席に移動した。

「ずっとこの街にいるの?」彼女が問いかける。僕は口をつけたコーヒーマグに目を落としたまま、わからないけど、たぶんねと答えた。

「この街には何もないのに?」

「そうだね」と僕は苦笑する。この街には何もない、いつか彼女にそう伝えていたことを思い出した。この街には何もない。だけど君が現れてくれた。ふと君がいなくなった後のこの街を想像してみた。僕だけがいる街、何もない街。

不意に、あざけりような笑い声が響いて通りに目を向けると、男が数人ほど、ニヤついた表情である一点を凝視していた。視線の先に目をやると、若い男女が改札口で抱き合ってキスをしていることがわかる。見つめあって微笑み、また抱き合ってキスをしている。普段ならば茶化さない方が難しいほど珍しい光景だった。だけど。

「笑えないね」と僕は言う。「あの男たちが嘲笑したカップルは、もしかして今生の別れを惜しんでいるのかもしれない」

「今生の別れなんてないわ。死別でもない限り会いたい人には会えるものよ」

「会う気がある場合はね」

そうかもね。と彼女はコーヒーを飲んだ。そうしてカップルに視線を戻し目を細めている。彼女はいま何を思うのだろうと聞いてみたい衝動に駆られたが、きっと思いたいように思うだけなのだろう。人に予め決められた役割があるとするのならば、彼女の場合は簡単だ。彼女には彼女の役割がある。自由に呼吸をすることは、文化的にも精神的にも世俗的に正しいものだと彼女の瞳が教えてくれる。その透き通る透明な風のような容姿や、その美貌を自覚しているような態度や物言いにも関わらず、誰もが彼女に気に入られようと努力した。その努力の方向性に差異はあれど、誰もが明日の風を信じさせて欲しいと懇願するように彼女の笑顔を引き出したがった。どうすればそんな風に生きていけるのかはわからない。僕の役割は何だろう、そもそもが僕に役割なんてあるのだろうか。

「覚えてる?」と彼女が言う。少し首を傾けて彼女は真っ直ぐに僕を見る。両手の指先を合わせて微笑んでくれる。

「なにを?」

数秒続いた沈黙の後で、吹き出すように彼女は笑いだした。

「初めて会った日にあなたは私に、どんな風に口説けば僕と一緒にいてくれる? そう聞いたのよ」

「ああ、随分と冷たくあしらわれたこと覚えてるよ」と僕も笑った。「完璧な口説き文句なんてない、完璧な愛がないことと同じよ。だっけ?」

「そうそう。変な人だと思って警戒したわ」

「でもちゃんと答えてくれた」

「完璧な口説き文句なんてないって?」

「そう。完璧な口説き文句なんてないって」

彼女は目を細めて、懐かしい思い出、と呟いた。

綺麗だなと僕は思った。容姿ではない。彼女を彼女たらしめる全てが、揺り籠から墓場までのその道程が、今この瞬間の彼女をずっと眺めていたいとそう思う。こうして向かい合ってコーヒーを飲める日がくるなんて、出会った当初は想像さえしていなかった。目の前にいる彼女の微笑みは想像の結実ではない。重力に引かれた林檎のように、渦潮に飲まれる木の葉のように、満足のいく口説き文句さえ要らなかった。ただ彼女の奔放さや、しなやかなその生き方が、僕をひととき、隣に置くことを許したに過ぎないのだろう。

「ねえ、もう一度聞きたいわ」

「なにを?」と僕は笑った。「また冷たくあしらう気?」

「それは、わからないわよ?」そう言って彼女は悪戯っ子のように微笑む。

彼女が楽しそうに思い出を懐かしむことと、自分が感じていることが、ズレている事はわかっていた。ただ自分の感じた感覚が、彼女の微笑みの違和感についてを言葉にするのを憚らせた。違和感、そうだ違和感だ。僕が彼女を愛することは役割だろうかと考える。おそらく違うだろう。責任でもない。

沈黙が続き、彼女が腕時計に目をやったタイミングで、僕はコーヒーを飲み干した。それを合図に席を立ち二人で改札口に向かった。

先程のカップルはもうどこにもいなかった。何となく、あのカップルが今生の別れを惜しんでいたとしたらと、そう考えた先程の突飛な想像を飛躍させてみる。僕が気になったのはどちらが残されたのかだった。男の方だろうか、それとも女の方なのだろうか。遠目にはわからなかったが、もしかしてあのカップルは抱きあいながら、キスをしながら泣いていたのかもしれない。残る方と残す方、一体どちらの方が辛いのだろうか。

彼女としばらくたわいのない話をして電車を待った。この後は何を食べるのか、夜には何をするのか。などと確認しあい、今週末の予定をも確かめあった。いつもと同じいつも通りの会話だった。

「ホットドックを買っておけばよかったわね」

「確かに、少しお腹が空いてきた」

「いま買ってきて」

「あの行列見てたろ? 間に合わないって」

彼女が、ふふふと笑って僕の肩を弱く叩いた。「想像してみて。あなたがホットドックを手に戻ってきた時には、もう私はここにいないの」

「酷い女だ」と僕も笑った。「きっと生涯恨むだろうね」

「覚えていてほしいのよ」そう言って微笑んだ後、彼女は顔を伏せた。僕の肩に手を置いて、弱々しく撫でた。声のトーンが変わり、少しだけ震えた唇で続けた。「もう一度、言ってみて。さっき私がそう言った時に、あなたがあの時のセリフをもう一度話してくれていたとして。私はどんな答えを用意していたと思う?」

そう尋ねてくる彼女の顔は笑っているが、目は笑っていなかった。

わからない。と答えようとして、やめた。

完璧な口説き文句なんてない。と答えようとして、やめた。彼女が何を伝えようとしているのかわからない。完璧な愛がない以上、僕には辿り着けない問題だろうと思った。

二人で夜通し見た映画にも、昼間のキャンパスで初めて手を繋いだことにも、真夜中に二人で酔って落ちた湖で風邪を引いたことも。郵送代の方が高いのよ、とダンボール箱に詰め込んだ銘菓にも。どこにも答えはないような気がした。

「どんな風に」と僕は彼女の目を見つめて素直に聞いてみる。「どんな風に口説けば、僕と一緒にいてくれた?」

新幹線発着のアナウンスが流れて、改札前の人たちが一斉に動き出した。彼女は僕を見つめていた。混濁していく認識と、その最後の時間の中で、僕はこの瞳をずっと見ていたいと思った。この美しく濡れるブルーの瞳を。決して触れることのないだろうと思っていた、童話の世界の住人、白雪姫のような白い肌を。

「簡単な言葉だったのよ」そう言って彼女はまた。いつものお別れの挨拶と同じように僕の耳を撫でて、微笑んだ。「その一言で私は、あなたの側を離れなかった」

そうして、初めて隣で目覚めた朝に伝えてくれたように。

「Please, please keep holding my hands」

とそう言った。



ももちゃん(旅田百子様)が番外編を書いてくれましたので本物のいいビールを飲むことにします




 


お肉かお酒買いたいです