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夏の写真を撮る人がいて-1

 副鼻腔炎を患っている彼女の鼻を啜る音が好きなんだよね。

 水滴に滲んだ塗り絵の味の缶ビールを傾けながら僕が言うと、スピーカーの向こうの友人たちは笑ったり相槌を打ったり、増幅した咀嚼音に似た筆音を対象に殴り付け、思い想いの作業の途中、息継ぎを数えるかのように句読点を打ち続ける。
 
「確かにそう」「まったくもってその通り」「お弁当作ってて偉いよなぁ」「そそそそ」「あ、なんだ今食べる分か」「そそそそ」「言ってもハイボールよりウイスキーソーダって言い方の方が良くない?」「わかる」「そうなのよ」「おめーきんたまついてんかぁー?」「ちんちんかい」「可愛いとこいただきました」「楽しいなあ」「罵倒が酷い」「ええー」「つまり聖域ってコトぉ?」「そそそそ」「今日の夕飯はじゃがいも食べたよー」「中世ペスト期の食事かい」「確かに」「たし蟹」「そう思うます」「ますかね」「蟹」「カニ」「そそそそ」「〼」

 グループ通話が終わり、二十四時。僕はあなたのことを考えている。あなたとはつまり、臨海融合頻度60Hz女のことで、正直な話、まったく意味がわかっていない。

「わからないってことは、つまり気になると言うことなのです」

 罪悪感を吐き捨てるように独りごちると部屋の気温が体感で二度下がってきて、眠りのための都合のいい温度が寝室の真ん中に染み渡る気がしている。寝っ転がると、尻ポケットに違和感がある。確かめると、紙巻きタバコの一部がほつれて百円ライターの点火口に埃とともに詰め込まれている。これも、穴だな。とは口に出さない方がいいだろう。

「あなたの恋の出口がここだ。ごめんね」

 彼女は最近カメラが趣味でいるらしく、時折お気に入りの日常をデータでくれる。優雅で優美な風景や情景などとは無縁ではあるものの、被写体に選んだ人や背景から透けて見える彼女の生活が嬉しく。

「めちゃくちゃいい写真」と思わず僕が返事をすると、「やってやりました。ところで今日はお酒飲んでないですか?」

「まだ飲んでない。早く仕事終わらせて飲みたいよね」

「じゃあ夜は……倍飲めるってことじゃん……」などと笑って静かに厳かに、僕の心に楔を刺す。

 愛してる。とは言えないでいる。
 愛してる。とは言わないでおく。

 前髪が伸びすぎでいて目にかかる。分けても上げても重力に負けて降りてくる。辟易としながら鏡を見て、続いてスマホのスケジュールを確認した。次の休みまではあと三日で、三日後は月曜だから行きつけの美容院が定休日で──。
 白髪が混じるこめかみを見つめ、つまらないなとまた独りごちた。ズボンと一緒にパンツを下ろして右手で性器を掴む。声を想像しながらしごくと、あっという間に飛び散ってティッシュの上に着地した。尿道に溜まった出涸らしを擦り付けるように拭いて、パンツも上げずにスマホを触る。睡魔のまどろみのなかで、明日のスケジュールを見返してみる。とてもつまらない飲み会の用事に、沸々と怒りが湧いてくる気分もするが、眠気には勝てない。いつだって勝てないままだ。いつもいつも。

「鈴木お前、ちゃんと箸使えんのか」
「ええ? ダメですか」
 乾杯開始二分で嫌な会話が耳に届く。先輩が後輩に、立場を逆手に正論をぶつける儀式。もちろん、儀式だと思っているのはいつだって第三者だけだ。つまりこの瞬間の僕。

「どういう教育受けてきてん。あのな、お前、今は会社の接待費が申請制になった言うても、お客さんに誘われたら二つ返事で行かんなん時もこの先出てくるんやわ。そんな時にお前、そんな箸の持ち方して飯食ってみろ。会社の信用に関わるやろ」
「ええ…、今までは問題なかったんですけど」
 
 永遠に3杯目を頼まないエースのビールの泡が消えて1時間になる。
 営業部には全部で五つの課があり、僕が所属しているのは二課でいて、集められたメンバーは部長か専務の意向か、その両方を媒体とした体育会系の人間が主なのだと、慣習なのだと聞かされていた。それも入社数ヶ月目のことだ。一課は花形でいて、学歴に裏打ちされた営業手法と結果が期待されている。二課は地道にコツコツと足で稼ぎ、だからこそ職人気質の人材が集まっている。二課の七人で当月の親睦を深めようかと言い出したのはグループの長を務める課長で、僕としてはお酒をタダで飲めるのならばという思いもあるが、未だに何故自分がこの場所にいるのかがわからない。明らかに浮いているという自覚もあるが、どうぜどこに配属されても扱いは変わらないだろう。

「愚痴なんて聞きたくないわ。お前それ、本人の前で言えんのか? 言えないなら言うな。そういうとこだぞ」
「はい……」
「だいたいお前、箸の使い方は今直せや。親が悪いんやとは思うけど、そんなんでお前の評価が決まるなんて馬鹿らしいとは思わんか? 俺は全部直してきたぞ、親の教育の全部を」

 話の前後は聞いていなかったが、おそらくは正論を浴びせられたのだろう鈴木が悔しそうに言葉に窮している。ちらちらと視界の端を追ってはいたが、先程から一向に箸が進んでいない。目の前に並べられた刺身や煮物、揚げ物などの皿が鈴木の前にはきちんと手付かずの状態で残されていて、両隣の先輩たちの前にはすでに蒸し物が並べられている。
 僕は僕で、何も言えないままでいる。諦めている、とでも言えば多少の格好は付くかも知れないが、要は巻き込まれたくないのだ。機嫌のいいままでいさせてほしいとそう考えてしまう。悲しくなるのだ。罪悪感に似た感傷を心に抱いてしまう。

「そういや鈴木くんて彼女いるんやっけ? ほら前話してくれたやん。大学時代からの熱いやつ」
 いたたまれずに話しかける。話題を変えてどうにかお茶を濁したかった。
「ちょ、それ内緒のやつ」
 助け舟は2秒で沈んだ。

お肉かお酒買いたいです