見出し画像

おはようハルニ

実在しない猫が見えるようになって3ヶ月になる。視界の端で、窓の向こうで、直視して数秒の内、瞬きの瞬間には消えてしまうのだけど実感としては確かに存在している。勿論、僕の頭の中でだけ存在する幻のようなものなのだ。初めのうちは驚き困惑こそしたもの、慣れとは恐ろしいもので、存在しない猫がいる生活も今では日常として落ち着いている。そうして猫が視界の端でうろうろしている姿を感覚的に納得し、その存在を承認し終えた時にはこう思った。どうせ幻ならムーミンが見たかった。

デートの当日、約束の時間に20分ほど遅刻して待ち合わせの場所に赴くと、既に彼女はそこにいて、僕を見つけると小走りで駆けてきた。遅刻したことを軽く謝り、二人で車に乗り込んだ。

「ホテルに入ってから飯を食うのと、飯を食ってからホテルに入るんだったら、どっちがいい?」

「最近あんまりできてなくて辛いからホテルかな」と彼女はあっけらかんと言う。「でもその後でいいから話聞いて欲しいっていうか相談したいことある」

「相談?」

「恋愛相談なんだけど大丈夫?」

「うん、いいよ」

ここのホテルがいいとか、あそこには露天風呂がついてるとか、とにかく彼女の要望通りに車を走らせた。事が終わり二人で風呂に入って身体を流した後の時間になってようやく彼女は話始めた。

「このライン見て欲しいんだけど」とスマホのやり取りを見せてくる。「好きな人がいて、でも年の差が大きくて、付き合ってって伝えたら会えなくなりそうな気がしてて」冗談みたいな口調で、でも真剣な顔で言う。

「うーん、好きだったら頑張ればいいと思うけど」

「でもごめんねって言われたら死んじゃう。15歳も年下の女の子って恋愛対象になると思う?」真剣な口調と冗談みたいな顔で言う。

「わかんないけど、たぶん大丈夫大丈夫」

「ほんと?」

「大丈夫でしょ、かわいいし」

あ、猫がいる。視界の隅で僕を見ている。彼女に腕枕しながらぼんやり眺める。

「私ね、あなたのこと好きで好きで仕方なかったわけじゃないよ」

「知ってるよ」

「でも好かれたくて好かれたくて仕方なくなってたから会いたいって連絡してたんだよ」

「それは知らなかった」

一年ほど前に彼女と会うことをやめた後も定期的に連絡はきていた。返事をすることもあれば全くしないときもあった。そうか、と僕は思い出した。あのとき僕はこう言ったのか。

「好きな人ができたから、もう会えないよ」

つまらない言い回しだと思ったが、過去に同じことを伝えた相手から返される台詞としては感慨深いものがある。たった一つの台詞で世界は美しい様相を醸し出す。

15歳年上の男とのラインのやり取りは愛の言葉で溢れていた。お互いに好意を匂わせ、デートの段取りを少しずつ重ねていく。恐らく最初のデートで身体を重ねるだろう。仕事が忙しく月に一度か二度しか会えないことを匂わせた文章や、性的な欲求を匂わせたテストクロージングについて僕は何も触れない。

好きな人がいると言った彼女が、恋人になったらディズニーやユニバに連れていってもらうのと目を輝かせて未来を語る。ついさっきまでは僕の下で喘いでいた彼女。今この瞬間も僕の体に寄り添って甘えている彼女が、その好きな男に対しての返信の内容を一緒に考えて欲しいとスマホの画面を見せてくる。そのことについて僕は何も触れない。

15歳年下の女に恋愛感情を抱いた男は、純粋な恋愛しかしない。好きな人と付き合えた女は、これから先他の男に抱かれたりもしない。わずか10分の会話の中で、世界は優しく、正しく、美しいものに形を変える。作為はあっても嘘はない。恐らく真実とはそれぞれの胸の内にしか存在しないものなのだろう。

あ、また猫が動いた。


家に帰ると彼女から連絡がきていた。「これからも相談していい?」

心が乾いていく気がしたが、誰かを好きになってしまうことと比べれば随分心地よかった。視界の隅に猫がいる。なんとなく呟いてみた。

「ねこねこねこ、猫がいる」

ムーミンが現れない事は残念だが。せっかくだからと僕はこの猫に名前をつけることにした。春にはとっくに終わっていたのだからと。ハルニと名前をつけて呼んでみた。ハルニ、いい名前なんだ。



お肉かお酒買いたいです