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あなたの後ろ髪を引きたい
特段悩みはないのに、近ごろ、眠りが浅い。
どれだけ好もしい夜を過ごし、心地よい疲れを覚えていたって、3時間ほどで目が覚めてしまう。そのあと少ししたら眠れるのだから、そんなリズムに自然となったならぜひ受容したいのだが、ゆるく疲れがたまっていく。
体温みたいにメンタルの調子も明確に数値で出て、栄養剤で調子を整えられたら良いのにといつも思う。
悩みは、ないのだ。本当に。
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人が自ら死を選んではいけない理由について考え込むことがある。そして今まで一度も、壁を越えられたことがない。
命は大切だから?周りの人を悲しませるから?
自分を生きるのが苦しいのに、実体のない命という概念や、周りの人のために我慢することが必要なのだろうか。
全然わからない。たぶんずっとわからないままの気もするし、答えがすぐ出る問題なわけないし、そう思っている節があったとしたらそれは完全なる奢りだ。
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「生きていかなきゃ」と思うこと自体、時折無性に苦しいことが、実はある。
そんなとき、明確に終わりを選びたい気持ちになったことはないが、この先何年も、自身の人生を守っていくことはつらいかもしれないと漠然と感じることはある。
これがもし続いて、果てが見えなくなったら?想像できてしまう瞬間がいつか来るかもしれないと、まだ見ぬその日が仄暗く怖い。
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そんなとき、呼吸を続ける道を無意識に選び、8:30のアラームから自然と日常に戻っていくのは、ゆうべの自分が色んなものに後ろ髪引かれたからかもしれないと思う。
それは必ずしもドラマティックなものではない。
家族、友達、お気に入りのバンドの新譜、そろそろコートをしまって薄手のカーディガンを引っ張り出さなきゃという気怠い予定、ベランダのルッコラ。
手を差し伸べられる、という表現が使われることが多いが、そこまで恣意的なものではなく、たまたまそこにあって心惹かれたものの明日を見てみたいと思うような心地だ。
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ただ一度、明確に手を差し伸べられた瞬間があった。
なんてことない弱音を、冗談まじりに友人に吐き出した夜。彼女は、二言。
「そんならうちの近所に住んでよ、それでなるだけ沢山会おうよ、ねえ」
生きなければならないとは言われなかった。彼女が私に会いたいから。紡ぎ出された言葉の主語は、あくまで彼女自身だった。
彼女の家は関西だ。私は東京在住で、友達もほぼ都内。独身アラサー女を移住させようなんてめちゃくちゃ勝手じゃないか?
それが、嬉しかった。世間に溢れるどんな綺麗事よりも彼女のエゴは、彼女がそれを忘れてしまっても自分をここに繋ぎ止める気がした。
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何で生きていかなきゃいけないのだろう。答えはわからないけど、やっぱり、私は生きてほしい。知人だけでなく、みんなに。
極論だが、生きていかなきゃならない、わけじゃないのかもしれない。
だからこれはエゴでしかない。でも、やっぱり生きていてほしい。
あなたが後ろ髪を引かれるようなものを、どうにかしてつくりたい。
それが自分にとっての襟髪だ。
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