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福翁自伝 3. 大阪修行

兄の言うことには私も逆らうことができず、大阪に足を止めました。緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳(うどし)の三月でした。その前、長崎にいる時にはもちろん蘭学の稽古をしたのですが、その稽古をしたところは楢林(ならばやし)というオランダ語通訳の家、同じく楢林という医者の家、それから石川桜所(いしかわおうしょ)という蘭法医師の家などでした。この人は長崎に開業していて立派な門戸を張っている大家ですから、中々入門することはできません。ソコデ、そこの玄関に行って調合所の人などに習ったりして、あちこちにチョイチョイ教えてくれるような人がいればそこへ行きました。どこの何某(なにがし)に頼って、誰かの門人(もんじん)となってみっちり蘭書を読んだということではないので、大阪に来て緒方に入門したのが蘭学修行の本当の始まりでした。初めて規則正しく書物を教えてもらいました。その時も私の学業の進歩は随分速くて、塾には大勢の書生がいましたが、その中ではマア成績の良いほうだったと思います。

兄弟共に病気

安政二年も終わり三年の春になって、新春早々大いに不幸なことが起こりました。大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯(リューマチス)に罹り、病状がとても重かったのです。トウトウ手足も動かないというほどになってしまい、いったい回復するのかしないのか、とうとう右手は使うことができず、左手で筆を持って書くというような容体になってしまいました。ソレと同時に、その年の二月頃に緒方の塾の同窓で先輩の、予(かね)てからお世話になっていた加州(かしゅう)の岸直輔(きしなおすけ)という人が腸チフスに罹って、これもまた重症でした。ソコデ、常日頃からの恩人ですから、コンナ時は私が看病しないといけないと思いました。また、加州の書生に鈴木儀六(すずきぎろく)という人がいて、彼も岸直輔と同郷の縁だったので、私と鈴木の二人で昼夜看病しました。およそ三週間も手を尽くしましたが、どうしても重症で、とうとう助かりませんでした。この人は加賀の人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送ってあげようと二人で相談の上、遺骸を大阪の千日(せんにち)の火葬場に持っていって焼いて、骨を本国に送り、ひとまず事は済みました。ところが、今度は私が千日から帰ってきて、三、四日たってからヒョイと具合が悪くなりました。容体がどうもただの風邪ではなく、熱があって気分がとても悪かったのです。ソコデ、私の同窓生は皆医者なので診てもらうと、

「これは腸窒扶斯(チフス)だ。岸の熱病が伝染したのだ。」

と言われました。そのことが先生に伝わり、その時私は堂島の倉屋敷の長屋に寝ていたのですが、先生がお見舞いに来てくださって、

「これは愈(いよい)よ腸チフスに違いない。本当に療治(りょうじ)しないといけない。馬鹿にできない病気ですよ」と言われました。

緒方先生の深切

その時、今でも忘れられないのは、緒方先生がとても親切にしてくださったことです。

「乃公(おれ)はお前の病気をちゃんと診てやる。診てやるけれども、乃公(おれ)が自分で処方することはできない。なぜかと言うと、迷ってしまうからだ。この薬か、あの薬かと迷って、後になってそうではなかったといって、また薬の加減をしてしまうだろう。人情のせいで、しまいには何の療治をしたのか訳がわからなくなってしまうということを免れることができない。病気は診(み)てやるが、執匙(しっぴ)は他の医者にやってもらうから、そのつもりでいてくれ。」

と言って、先生の朋友である梶木町内藤数馬(ないとうかずま)という医者に執匙(しっぴ)を託し、内藤の家から薬をもらって、先生はただ毎日来て容体を診て、病中の摂生法を指図するだけでした。マア、今日の学校とか学塾というものは、人数も多くてとても手に及ばないでしょうから、師弟の間柄は自ずと公的なものになっています。けれども昔の学塾の師弟はまさしく親子のようなものです。緒方先生が私の病を診て、どうも薬を処方するのに迷うというのは、自分の家の子供を療治するのに迷うのと同じ事で、その扱いは実の子と少しも違いませんでした。後々、世の中が段々と変わっていけば、こんな事はなくなってしまうでしょう。私が緒方先生の塾にいた時の感覚は、今の日本国中の塾生の感覚と較べると大変違うでしょう。私は緒方先生を本当の家族のように思い、また思わずにはいられませんでした。ソレカラ、実父のように緒方先生が立会って、内藤数馬先生の執匙(しっぴ)であらゆる療治をしてもらいましたが、私の病気もなかなか手ごわかったのです。病気を患って四、五日目から人事不省(じんじふせい)になり、およそ一週間ばかりは何もわからないほどの容体でしたが、幸いにして全快しました。衰弱はしていましたけれども、若かったですし、もともと体が丈夫だったからでしょうか、回復は早かったです。四月になったときには、もう外に出て歩くようになりましたが、その間に兄は僂麻質斯(レウマチス)を煩ってしまい、私は熱病の大病後でしたので、どうしようもありませんでした。

兄弟中津に帰る

その時、ちょうど兄の年期というものがあって、二年いれば国に帰るという約束で、その年の夏が二年目になり、私もまた病後大阪にいて書物など読むことも出来ず、兎(と)に角(かく)帰国がよかろうというので、兄弟一緒に船に乗って中津に帰ったのがその年の五、六月頃だったと思います。ところが、私は病後ではありましたが日々に恢復(かいふく)して、兄の僂麻質斯(リューマチス)も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもありませんでした。それでは私はまた大阪に参りましょうといって出たのがその年、すなわち安政三年の八月でした。モウその時は病後というわけではなく、中々元気が良くて、大阪に着いたその時に、私は中津屋敷の空長屋(あきながや)を借用して独居自炊、即ち土鍋で飯を焚いて食って、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学していました。

家兄の不幸再遊困難

ところが、また不幸な話で、九月の十日頃に国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰って来いという急報がありました。とても驚きましたが、仕方がないことです。取るものも取り敢あえず、スグに船に乗りました。今回の船旅は誠に順風で、速みやかに中津の港に着いて、家に帰ってみればモウ葬式はもちろん、何もかも片が付ついてしまった後の事でした。私は叔父のところの養子になっていましたが、自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人いましたが女の子では家督相続はできません。これは弟が相続するのが当然(あたりまえ)の順序だというので、親類相談の上、私が知らぬ間にチャント福澤の主人になっていて、当人の帰国を待って相談なんということはありませんでした。貴様は福澤の主人になったと知らせてくれるくらいの事です。さて、その跡を継いだ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服(きふく)を勤めねばなりません。それから家督相続といえばそれ相応の勤めをしないといけません。藩中小士族(こしぞく)相応の勤を命ぜられましたが、私の心というものは天外万里(てんがいばんり)、何もかも浮足だって一寸(ちょい)とも落付きませんでした。中津に居続けるなどということは何としても避けなければならない事ではあるけれども、藩の正式な任命であるから、ちゃんと勤をしなければならないので、その命を拒むことはできません。ただ言行を謹み、何と言われてもハイハイと答えて勤めていました。自分の内心では、どうしても再遊したいと決めていましたが、周囲の有様というものは到底そんな雰囲気ではありませんでした。藩中の一般の人たちはさておき、近い親類の者までも西洋は大嫌いで、何も話し出すことができません。ソコデ、私には叔父がいますから、そこに行って何か話をして、ついでながら、それとなく再遊の事を少しばかり言いかけると、それはそれは恐ろしい剣幕で頭から叱られました。

「怪しからぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続したのだから、御奉公大事に勤をするものだ。ソレに和蘭(オランダ)の学問とは何たる心得え違いか。呆れ返った話だ。」

とか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷やかして、貴様のような奴やつは負角力(まけずもう)の瘠錣(やせしこ)というものじゃと苦々しく睨みつけたのは、身の程知らずという意味だったのでしょう。とても叔父さんに賛成してもらうことはできそうにもないのですが、私が心に思っていれば自ずと口に出でしまいます。狭い世間だからすぐ分ってしまう。近所ではどことなくそういう評判が立っていました。普段から私のところによく来るお婆さんがいて、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重(やえ)さんという人でした。今でもその人の顔を覚えています。近所のお婆さんで、あるとき私の家に来て、

「何か聞けば諭吉さんはまた大阪に行くという話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう。再び出すなんというのは、お前さんは気が違うていはせぬか。」

というように、世間一般まずそんな風(ふう)で、その時の私の心境は、寄辺(よるべ)汀(なぎさ)の捨小舟(すておぶね)、まるで唄の文句のようでした。

母と直談

ソコデ、私は独り考えたました。

「これはどうしようもない。ただ、頼めるのは母一人だ。母さえ承知してくれれば誰が何と言っても怖い者はない。」

ソレカラ、私は母にとっくり話しました。

「おッ母さん。今、私が修業しているのはこういう有様、こういう塩梅(あんばい)で、長崎から大阪に行って修業してきました。自分で考えるには、修業すれば何か物になるだろうと思う。この藩にいたところが何としても頭の上がる気遣いはない。真に朽果(くちは)つるというものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。あなたはお淋しいだろうけれども、何卒(どうぞ)私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。

その時私が出れば、母と死んだ兄の娘の産れて三つになる女の子と五十有余の老母とただの二人で、淋しいし心細いに違いないけれども、とっくり話して、

「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから。」

と言ったら、母も中々思切りのよい性格で、

「ウム、よろしい。」

「アナタさえそう言って下されば、誰が何と言っても怖いことはない。」

「オー、そうとも。兄は死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前もまたよそに出て死ぬかも知れぬが、死生(しにいき)の事は一切言うことなし。どこへでも出て行きなさい。」

そこで母子の間というものはちゃんと魂胆(こんたん)ができてしまって、それから、いよいよ出ようということになりました。

四十両の借金家財を売る

中津を出るには借金の始末をつけなければなりませんでした。その借金というのは、兄の病気や勤番中のそれこれの入費、およそ四十両のことです。この四十両というものは、この時代に私などの家にとっては途方もなく大きい借金でした。これをこのままにしておいてはとても始末が付かないので、何が何でも片付けなければなりません。どうしよう。ほかに仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るよりほかなしと考えて、聊(いささ)か当てにできたのは、私の父は学者であったから、藩中では結構な量の蔵書を持っていたことです。およそ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類の少ない本もありました。例えば私の名の「諭吉」というその「諭」の字は天保五年十二月十二日の夜、私が誕生したその日に、父が多年所望していた明律(みんりつ)の上諭条例(じょうゆじょうれい)という全部六、七十冊ばかりの唐本(とうほん)を買取って、たいそう喜んでいるところのその夜に男子が出生して、重ね重ねの喜びというところから、その上諭の「諭」の字を取って私の名にしたと母から聞いた事があるくらいで、随分珍らしい漢書がありました。しかしながら、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようということになって、まず手近な物から売れるだけ売ろうというので、軸物(じくもの)のような物から売り始めて、目ぼしい物を挙げれば頼山陽(らいさんよう)の半切(はんせつ)の掛物を金二分で売り、大雅堂(たいがどう)の柳下人物(りゅうかじんぶつ)の掛物を二両二分、徂徠(そらい)の書、東涯(とうがい)の書もあったが、全く値が付きませんでした。その他は、ごたごたした雑物ばかりでした。覚えているのは大雅堂(たいがどう)と頼山陽(らいさんよう)です。刀は天正祐定(てんしょうすけさだ)二尺五寸拵付(こしらえつき)、よくできたもので四両で売れました。それから蔵書です。中津で買う人がいるはずがありません。どうしたって何十両という金を出す藩士はいません。そこで私の先生、白石という漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出されて豊後(ぶんご)の臼杵(うすき)藩の儒者になっていたので、この先生に頼っていけば売れるだろうと思って、臼杵(うすき)までわざわざ出掛けて行って、先生に話をしたところ、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩(うすきはん)に買ってもらい、まとまった大金十五両が手に入り、その他あらん限りの皿も茶碗も丼も猪口(ちょく)も一切売って、ようやく四十両の金が揃いました。その金で借金はきれいに済んだのですが、その蔵書の中に易経集註(えききょうしっちゅう)十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々と書入れをした見事なものがありました。これは亡父が存命中大阪で買取って、ことのほか珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆をもって、「この東涯先生書入の易経十三冊は天下稀有の書なり、子孫謹しんで福澤の家に蔵(おさ)むべし」と、恰(あたか)も遺言のようなことが書いてありました。私はこれを見て何としても売ることが出来ないと思いました。これだけはと思って残しておいたその十三冊は今でも私の家にあります。それと、今だに残っているのは唐焼(とうやき)の丼が二つあります。これは例の雑物売払いのとき、道具屋が値段を付けて丼二つ三分とわれました。その三分とは中津の藩札(はんさつ)で銭にすれば十八文のことです。余りに馬鹿々々しい。たったの十八文では、あっても無くても同じことだと思って売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗いになっているのもおかしいものです。

築城書を盗写す

それはそれとして、私がそのとき不幸で中津に帰っているその間に一つ仕事をしました。というのはその時に奥平壹岐(おくだいらいき)という人が長崎から帰っていたので、もちろん私は御機嫌伺いに行かなければなりませんでした。ある日、奥平の屋敷に推参(すいさん)して久々の面会をして、四方山(よもやま)の話のついでに、主人が一冊の原書を出して、

「この本は、乃公(おれ)が長崎から持ってきた和蘭(オランダ)新版の築城書だ」

と言うので、その書を見たところ、もちろん私などは大阪にいても緒方の塾は医学塾ですので、医書、窮理(きゅうり)書のほかにそんな原書を見たことがありませんから、随分珍書だとまず私は感心しました。と言うのは、その時は丁度ペルリ渡来の時で、日本国中、海防軍備の話が中々喧(やかま)しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読んでみたくて堪らなくなりました。けれども、これは貸せと言ったところで貸す気はありません。それからマア色々話をするうちに、主人が

「この原書は安く買った。二十三両で買えたから。」

なんて言ったのには、実に貧書生の胆を潰すばかりでした。とても自分では買うことはできず、しかもゆっくり貸す気もないのだから、私はただ原書を眺めて心の底でひとり貧乏を歎息(たんそく)しているそのうちに、ヒョイと胸に浮んだ一策をやってみました。

「なるほど、これは結構な原書でございますね。これを全部読むのは、とてもそんなにすぐにはできません。せめて、図と目録だけでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいか。」

と手軽にあたってみたらば、「よし貸そう」と言って貸してくれて、それこそ天与僥倖(ぎょうこう)です。それから私は家に持って帰って、即刻、鵞筆(がペン)と墨と紙を用意して、その原書を始めから写しました。およそ、二百頁(ページ)余のものであったと思います。それを写すについては、誰にも言われぬのはもちろん、写すところを人に見られては大変です。家の奥の方に引込んで、一切客にあわずに、昼夜精切(せいぎり)一杯、根(こん)のあらん限り写しました。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤めがあって、二、三日目に一昼夜当番する順になるので、その時には昼は写本を休み、夜になればそっと写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目(ひとめ)も眠らないのは毎度のことでした。また、このように勉強していると、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか言ってきはしないだろうか、いよいよ露顕(ろけん)すればただ原書を返すだけでは済みません。御家老様の剣幕で困ったことになるだろうと思い、心配で堪りませんでいした。生まれてから泥坊(どろぼう)をしたことはありませんが、泥坊の心配も大抵こんなものであろうと推察しながら、とうとう写し終えて、図が二枚あるその図も写してしまって、サア出来上った、となりました。出来上ったのですが、読合わせに困ります。これが出来なくては大変だというと、妙な事もあるもので、中津に和蘭(オランダ)のスペルリングを読めるものがたった一人いました。それは藤野啓山(ふじのけいざん)という医者で、この人はとても私のところに甚(はなは)だ縁があるのです。と言うのは、私の父が大阪にいる時に、啓山(けいざん)が医者の書生で、私の家に寄宿して、母も常に世話をしてやったという縁故からして、もとより信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野のところに行って、

「大秘密をお前に語るが、実はこうこういうことで、奥平の原書を写してしまった。ところが困るのはその読合せで、お前はどうか原書を見ていてくれぬか。そうしたら、私が写したのを読むから。実は昼にやりたいが、昼はできない。ヒョットばれたりしたら大変だから、夜分私が来るから御苦労だが見ていてくれよ。」

と頼んだら、藤野がよろしいと快く請合ってくれて、それから私はそこの家に三晩か四晩、読合せに行って、ソックリできてしまいました。モウ連城(れんじょう)の璧(たま)を手に握ったようなものでした。それから原書は大事にしてあるから、心配する必要もありません。しらばくれて奥平壹岐(おくだいらいき)の家に行って、

「誠にありがとうございます。お蔭で始めてこんな兵書を見ました。こういう新舶来(はくらい)の原書が翻訳にでもなりましたら、さぞマア海防家には有益の事でありましょう。しかし、こんな結構なものは貧書生の手に得らるるものではありません。ありがとうございました。返上致します。」

と言って奇麗に済んだのは嬉しかったです。この書を写すのに幾日かかったかよく覚えていませんが、何でも二十日以上三十日足らずの間に写してしまって、原書の主人には毛頭疑うような顔色(がんしょく)もなく、マンマとその宝物(ほうもつ)の正味(しょうみ)を盗み取とって私の物にしたのは、まるで悪漢(わるもの)が宝蔵に忍び入いったようなものでした。

医家に砲術修業の願書

その時に母が、

「お前は何をしているのか。そんなに毎晩夜更かししてろくに寝もしないじゃないか。何の事だ。風邪でも引くとよくない。いくら勉強でも程がある。」

と喧しく言ってきました。

「なあに、おッ母かさん、大丈夫だ。私は写本をしているのです。このくらいの事で私の身体は何ともなるものじゃありません。御安心下さい。決して煩いはしませぬ.]

と言ったことがありました。それから、いよいよ大阪に出ようとすると、その時可笑しい事が起こりました。今度出るには藩に願書を出さなければなりません。可笑しいとも何とも言いようがありません。それまで私は部屋住みだったから、外に出るからと言って届けも願いも必要ありません。颯々(さっさつ)と出入(でいり)したのですが、今度は仮初(かりそめ)にも一家の主人でありますから、願書を出さなければなりません。それに、私は既に母との相談は済んでいるので、叔父にも叔母にも相談する必要はありません。出抜けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々に知らせてくれるに、

「それはいけない。蘭学修業ということは御家(おいえ)に先例のない事だ。」と言う。

「そんなら、どうすればよいか。」と尋れば、

「左様(さよう)さ。砲術修業と書けば大丈夫だろう。」と言う。

「けれども緒方といえば大阪の開業医師だ。お医者様のところに鉄砲を習いに行くというのは、世の中に余り例のない事のように思われる。これこそ返って不都合な話ではござらぬか。」

「いや、それは何としても御例(ごれい)のない事は仕方がない。事実相違してもよろしいから、やはり砲術修業でなければ済まぬ。」と言うから、

「エー、よろしい。どうにでもしましょう。」

と言って、それから私儀(わたくしぎ)大阪表(おもて)緒方洪庵のもとに砲術修業に罷越(まかりこ)したい云々、と願書を出して聞済(ききず)みになって、大阪に出ることになりました。これで大抵の当時の世の中の塩梅式(あんばいしき)が分るでしょう。というのは、これは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中、悉(ことごと)く漢学の世の中で、西洋流などいうことは仮初(かりそめ)にも通用しないのです。俗にいう鼻掴(はなつまみ)の世の中に、ただペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、いわば一線の血路が開けて、そこで砲術修業の願書で穏かに事が済んだのです。

母の病気

願いが済んでいよいよ船に乗って出掛けようとする時に母が病気になってしまい、誠に困りました。私は一生懸命、こちら医者に頼み、あちらの医者に相談し、様々に介抱したところ、虫が原因だと言われました。虫であればどのような薬が一番の良剤かと聞くと、当時はまだサントニーネという薬はなく、セメンシーナが妙薬だと言われました。この薬はとても高価な薬で田舎の薬店には容易に売っていません。中津にたった一軒あるばかりでしたが、母の病気に薬の値段が高いの安いのと言ってはいられません。その時は借金を払った後だったので、なけなしの金を何でも二朱(にしゅ)か一歩(いちぶ)出して、そのセメンシーナを買って母に服用させました。それが利いたのかどうかわかりませんが、田舎医者の言うことを信じるほかになく、私はただ運を天に任せて看病が大事と昼夜番をしていましたが、幸いに難症でもなかったと見えて日数およそ二週間ばかりで快くなりまして、愈(いよい)よ大阪へ出掛けると日を決めました。出発のとき、別かれを惜しみ無事を祈ってくれる者は母と姉だけで、知人朋友、見送りしてくれる者もおらず、逃げるようにして船に乗りました。兄の死後、間もなく家財は残らず売払って諸道具もなければ金もなく、赤貧洗うかのようで、訪問してくれる人もおらず、寂々寥々(せきせきりょうりょう)、古寺のような家に老母と小さい姪をたった二人残して出て行くのです。流石に磊落(らいらく)書生もこれには弱りました。

先生の大恩、緒方の食客となる

船中無事大阪に着いたのは良かったのですが、ただ生きて身体が到着したというだけで、それから修業をするという当てがない。ハテ、どうしたものかと思いましたが仕方がありません。とにかく、先生のところへ行ってこの通り言おうと思い、大阪に到着したのはその年の十一月頃だったと思いますが、その足で緒方のところへ行って、

「私は兄の不幸などあり、斯(こ)う斯(こ)ういう次第でまた出て参りました。」

とまず話をして、それから先生だから本当の親と同じで何も隠すことはないので、家の借金の始末、家財を売払った事から、一切万事何もかも打明けて、あの原書写本の一条の真実を話しました。

「実はこういう築城書を盗写してこの通り持って参りました。」と言ったところ、先生は笑って、

「そうか、それはちょいとの間にけしからぬ悪い事をしたような、また善い事をしたような事じゃ。何はさておき、貴様はたいそう見違えたように丈夫になった。」

「左様(さよう)でございます。身体は病後ですけれども、今年の春はたいそう御厄介になってしまいましたが、その時の事はもう覚えていないほど元の通り丈夫になりました。」

「それは結構だ。そこで、お前は一切聞いていると、いかにしても学費のないということは明白に分かったか。私が世話をしてやりたいが、ほかの書生に対して何かお前一人に贔屓(ひいき)するようであってはよくない。待て待て。その原書は面白い。ついては、俺がお前に言いつけてこの原書を訳させると、こういうことにしよう。そのつもりでいなさい。」と言いました。

それから私は緒方の食客生(しょっかくせい)になりました。医者の家だから食客生というのは調合所の者以外にいないのですが、私は医者でなくてただ飜訳という名義で医家の食客生になっているので、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみということです。実際に飜訳はしてもしなくても良いのですが、嘘から出た真で、私はその原書を飜訳してしまいました。

書生の生活酒の悪癖

私はそれまで緒方の塾には入らずに屋敷から通っていたのですが、安政三年の十一月頃から塾に入って内塾生となり、これが私の書生生活、活動の始まりでした。元来、緒方の塾というものは、真実日進々歩主義の塾で、その中にいる書生は皆、活溌で有為(ゆうい)な人物なのですが、見方によれば血気の壮年、乱暴な書生ばかりで、なかなか一筋縄でも二筋縄でもいかない人物の巣窟でした。その中に私も飛込んで共に活溌に乱暴を働きましたが、自分は他の者と少々違っているということもお話しなければなりません。まず第一に、私の悪いところを言えば、生来(せいらい)酒を嗜(たしな)むというのが一大欠点です。成長した後にも自分でそれが悪い事だと知っても、悪習既に性を成して、自分で禁じることのできなかったということも、敢えて包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公けにするのは、余り面白くもありませんが、正味(しょうみ)を言わなければ事実談にならないので、まずひと通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。抑(そもそ)も、私の酒癖は、年齢を経て次第に成長するに従って飲むことを覚え、飲み慣れたということではなく、生まれたまま、物心ついた時から自然に好きだったということです。今でも記憶している事を言いますと、幼少の頃、月代(さかいき)を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いので、私はそれを嫌がりました。すると、剃ってくれる母が、

「酒を給(た)べさせるからここを剃らせろ。」

と言うので、酒が飲みたさばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らせていた事はかすかに覚えています。天性の悪癖、誠に恥ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、他に何も法外な事は働かず行状はまず正しいつもりでしたが、俗にいう酒に目のない少年で、酒を見てはほとんど廉恥を忘れるほどの意気地なしと言って良いかと思います。

それから、長崎に出たとき、二十一歳といいながら本当はまだ十九歳余りでした。まだ丁年(ていねん)にもならぬ身であるのに立派な酒客(しゅかく)で、ただ飲みたくてたまらなかったのです。ところが、兼ねてからの宿願を達成して学問修業をすると決めていたので、自分の本心に訴えて何としても飲まないようにして、滞留一年の間(あいだ)、死んだ気になって禁酒しました。山本先生の家に食客(しょっかく)中も、大きな宴会でもあればその時に盗んで飲むことも出来たでしょう。また、銭さえあれば町に出て一寸(ちょい)と升(ます)の角(すみ)からやるのも簡単です。でも、いつかばれてしまうのではないかと思って、とうとう辛抱して一年の間、正体を現しませんでした。翌年の春、長崎を去って諫早(いさはや)に来たとき初めて、ウント飲んだ事があります。その後、しばらくして文久元年の冬、洋行するとき、長崎に寄港して二日ばかり滞在中、山本の家を尋ねて先年中の礼を述べ、今度の洋行の次第を語り、そのとき始めて酒の事を打明けました。下戸(げこ)というのは嘘で、実は大酒飲みだと白状して、飲んで飲んで、恐ろしく飲んで、先生夫婦を驚かした事を覚えています。

血に交わりて赤くならず

この通り幼少の時から酒が好きで、酒のためにはあらん限りの悪い事をして、随分不養生もしましたが、その一方では私の性格は品行正しいものでした。これだけは少年時代でも、乱暴書生に交っても、家庭を持って世の中と接した際にも、少し他の人とは違って大きな顔ができます。滔々(とうとう)たる濁水(どろみず)社会に、チト変人のようで少し窮屈かも知れませんが、そうは言っても実際、浮気な花柳談(かりゅうだん)のような色事も、大抵事細かに知っています。なぜかと言うと、他人が夢中になって汚ない事を話しているのをよく注意して聞いて心に留めておくので、何も分らないことはありません。例えば、私は元来囲碁を知りません。少しも分らないけれども、塾中の書生仲間が囲碁を始めると、ジャジャ張りでて、巧者(こうしゃ)なことを言って、ヤア黒のその手は間違いだ、それまたやられたではないか、油断をするとこっちのほうが危いぞ、馬鹿な奴だ、あれを知らぬかなどなど、いい加減にしゃべっていました。書生の素人のへた囲碁で、助言はもとより勝手次第で、どっちが負けそうなという事は双方の顔色を見ていればよく分わかりますから、勝つほうの手を誉めて、負けるほうを悪くさえ言えば間違いはないのです。そこで、私は中々囲碁が強いように見えて、

「福澤、一番やろうか。」と言われると、

「馬鹿言うな、君達を相手にするのは手間潰(てまつぶ)しだ。そんな暇はない。」

と高くとまって澄まし込んでいるから、いよいよ上手のように思われて、およそ一年ばかりはごまかしていましたが、何かの拍子につい化けの皮が剥がれて、散々罵ののしられたことがあります。
と言うように、花柳社会の事も他人の話を聞き、その様子を見て大抵細かに知っています。知っていながら自分一身は鉄石(てっせき)の如く関わらないのです。マア申せば血に交わりて赤くならぬとは私の事でしょう。自分でも不思議ですが、これは私の家風だと思います。幼少の時から兄弟五人、他人を交ぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ない事は、仮初(かりそめ)にも蔭にも日向にも家の中で聞いたこともなければ、話した事もありません。清浄潔白、自ずから同藩の普通の家族とは色を異にして、ソレカラ家を去って他人と交わっても、その風(ふう)をチャント守って、別に慎むでもなく、当然の事だと思っていました。ダカラ、緒方の塾にいるその間も、ついぞ茶屋遊びをするとかいうような事は決してしませんでした。
と言いながら、前にも言った通り、何も偏屈でそれを嫌って恐れて逃げて廻って、蔭で理屈らしく不平な顔をしているというような事も頓(とん)とありません。遊廓の話、茶屋の話、同窓生といっしょになってドシドシ話をして問答して、そうして私はそれを冷やかして、

「君達は誠に野暮な奴だ。茶屋に行ってフラれて来るというような馬鹿があるか。僕は登楼(とうろう)はしない。しないけれども、僕が一度(ひとた)び奮発して楼に登れば、君達の百倍は被待(もて)て見せよう。君等のようなソンナ野暮な事をするなら、いっそのこと止めてしまえ。ドウセ登楼(とうろう)などできそうな柄でない。田舎者めが、都会に出て来て茶屋遊びの ABC を学んでいるなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞ。」

というような調子で哦鳴(がな)りまわって、実際においてその哦鳴(がな)る本人は決して浮気でない。ダカラ、人が私を馬鹿にすることはできないのです。よく世間にある徳行君子なんていう学者が、ムヅムヅしてシント考えて、他人のすることを心の中で悪い、悪い、と思いつつも、不平を呑みこんでいる人がいますが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もしません。一緒に戯れて洒蛙々々(しゃあしゃあ)としているから、かえって面白いのです。

書生を懲らしめる

酒の話はいくらでもあります。安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が初めて私に会ってこう言いました。

「君はどこから来たのか。」

「長崎から来た。」

というのが話の始まりで、その書生は、

「そうか、今後は懇親にお付き合いしたい。ついては酒を一献(いっこん)酌(く)もうではないか。」

と言うから、私がこれに答えて、

「初めてお目に掛かかって自分の事を言うのもなんだが、私は元来の酒客(しゅかく)、しかも大酒(たいしゅ)だ。一献(いっこん)酌(く)もうとは有難い。是非お供とも致したい。早速お供致したい。だが念の為に申しておくが、私には金はない。実は長崎から出て来たばかりで、塾で修業するその学費さえはなはだ怪しい。あるか無いか分らない。矧(いわん)や、酒を飲むなどという金は一銭もない。これだけは念の為にお話しておくが、酒を飲みにお誘いとは誠にかたじけない。是非お供致そう。」

とこう出掛けた。ところが、その書生の言うに、

「そんな馬鹿げた事があるものか。酒を飲みに行けば金が要るのは当然(あたりまえ)の話だ。そればかりの金もないはずはないじゃないか。」

と言う。

「何と言われても、ない金はないが、せっかく飲みに行こうというお誘いだから是非行きたいものじゃ。」

と言ったのですが、物別れでその日は終わってしまいました。翌日も屋敷から通って塾に行ってその男に出会い、

「昨日のお話は立消えになったが、どうだろうか。私は今日も酒が飲みたい。連れて行いってくれないか。どうも行きたい。」

とこっちから促したところが、馬鹿言うな、というような事で、お別れになってしまいました。

それから一か月が経ち、二か月、三か月経って、こっちもちゃんと塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知るということになって、当り前に勉強している。ある日、その男を引捕(ひっつか)まえた。引捕まえて面談し、

「お前は覚えているだろう。おれが長崎から来て初めて入門したその日に何と言った。酒を飲みに行こうと言ったじゃないか。それは、こういうことだろう。新入生というものは多少金がある。これを誘出して酒を飲もう、という考えだろう。言わずとも分かっている。あの時に乃公(おれ)が何と言ったか覚えているか。俺は酒は飲みたくてたまらないけれども金がないから飲むことは出来ない、とはねつけた。その翌日はこっちから促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。よく考えて見ろ。憚(はばかり)乍(ながら)、この諭吉だからそのくらいに強く言えたのだ。乃公(おれ)はその時には心に決めていた。お前がぐずぐず言うなら即席に叩倒して先生のところに引きずって行ってやろうと思っていたのだ。その決心が顔色に表れて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引込んでしまった。どうしようもない奴だ。こんな奴は塾にとっては、獅子身中(しししんちゅう)の虫というものだ。お前みたいな奴が塾を卑劣にするのだ。今後、新入生に会って仮初(かりそめ)にもそのような事を言ったら、乃公(おれ)は他人の事とは思わぬぞ。すぐにお前を捕まえて、誰ともいわず先生の前に連れて行って、先生に裁判してもらうが、それで良いか。心得ていろ。」

と酷く懲らしめてやった事があった。

塾長になる

その後、私の学問も少し進歩した折柄(おりから)、先輩達は国に帰ってしまい塾に人がいなくなり、遂に私が塾長になりました。さて、塾長になったからといって、元来の塾風で塾長に何の権力もあるわけではなく、ただ塾中一番むずかしい原書を会読するときに、その会頭(かいとう)を勤めるくらいのことで、同窓生の付き合いに少しも軽重(けいじゅう)はありません。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではない、何と言うか、乱暴をして面白がっているようなことだから、その乱暴生が徳義をもって人を感化するなどという鹿爪(しかつめ)らしい事を考える訳わけはありません。また、塾風を善(よ)くすれば先生に対しての御奉公御恩報(ごおんほう)じになるなどという、そんな老人めいた考えのはずもありません。ただ、私は仮初(かりそめ)にも弱い者いじめはせず、仮初にも人の物を貪(むさぼ)らず、人の金を借用せず、ただの百文も借りたことはないです。その上に、品行は清浄(しょうじょう)潔白にして俯仰(ふぎょう)天地に愧(はじ)ずと言います。もともと他の者と違うところがあるから、一緒になってワイワイやっていながらも、マア言ってみれば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、また自分の通りにしてやろう、というような血気の威張りであったろうと、今考えるとそう思います。決して道徳とか仁義とか大恩(だいおん)の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事はさらさら考えていませんでした。しかし、何でもそうやって威張りまわって暴れたのは、塾のために悪い事もあったでしょう。また、自ずから役に立たったこともあるだろうと思います。もし、役に立ったとすれば、それは偶然で、決して私の手柄でも何でもありません。

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