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Making Sense - The light of the Mind 2

A Conversation with David Chalmers

H: もちろんあなたはご存じないかもしれないけれども、私の人生の知的な要素においてあなたは重要な役割を担っていたんですよ。アリゾナ大学で2年ごとに開かれる「意識」に関する会議のうち、初期のものに参加したことがあるんです。その当時、私は学校を中退し、人生の方向性を模索していました。そして、当初はダニエル・デネット(ダニエル・デネット - Wikipedia)とジョン・サール(ジョン・サール - Wikipedia)の論争がきっかけで、心の哲学の世界に興味を持つようになったんです。そうしたら、たまたま『Journal of Consciousness Studies』に掲載されたツーソン会議の広告が目にとまって、そのまま参加したんです。
そのときのあなたの講演を今でもはっきりと覚えています。「意識のハードプロブレム(意識のハード・プロブレム - Wikipedia)」を明確にしたあなたの講演のお陰で、哲学をもっと深く学びたいと思ったんです。それがきっかけで科学をもっと学びなおそうと思い、現実世界から離れて象牙の塔に戻ったんです。私が脳科学の博士号を取得し、この問題に関心を持ち続けている理由のひとつは、20年以上前にツーソンであなたが始めた会話がきっかけなんですよ。

C:それは嬉しいですね。あれはたぶん1996年の会議ですね。デネットがいましたから。

H:ロジャー・ペンローズ(ロジャー・ペンローズ - Wikipedia)や、フランシスコ・バレーラ(フランシスコ・バレーラ - Wikipedia)とか、他にもたくさんの参加者がいましたね。とても魅力的な時代でした。

C:その前の年の1994年の会議は「意識のウッドストック」と呼ばれてるんですよ。メンバーを初めて集めてね。本当にすごかった。楽しかったですよ。多くの人が初めて会う人たちだったし。

H:私は普通の人が意識の問題に関してあまり親しみがないということをつい忘れてしまうんですよね。もう何十年もこの問題にどっぷり浸かっているので感覚が麻痺しているんです。意識は科学にとっては特別な挑戦だということを理解するのが難しい、ということに驚いてしまうんです。なので、基本的な問いから始めましょう。「意識」とは何か説明してもらえますか。よく混同するのは自覚とか注意とか、考えることだったり挙動だったり、いろいろとありますが、それらのものとは区別して説明してください。

C:意識を定義するのは本当に難しいんですけど、とりあえず、心や世界の主観的経験と呼びましょうか。つまり、一人称視点で考えたり、知覚したり、判断しているように感じるということです。例えば、私が窓の外を見たときに木々や草原、そして池なんかが見えます。これは網膜がとらえた光子が視神経を伝って脳に信号を送るという情報処理が起こっているわけですが、これは機能や挙動といったレベルの話です。しかしながら、そこには一人称の観点から感じる何かもあるんです。色という経験をしているかも知れない。緑が緑であること。池の光の反射。つまり、私の頭の中で流れている映画のようなものです。そして、少なくとも私にとって極めて重要な意識の問題は、まさにこの主観的であるということなんです。これは、挙動や機能という問題から区別できます。よく「意識」という言葉を自分が目覚めているとか反応があるという状態を意味すると勘違いすることがあります。そのような事象は、行動学的に理解するのが簡単なものと分類できるので、「意識のイージープロブレム」と呼んでいます。つまり、我々がどのように行動して、どのように反応して、どのように機能しているかということです。反対に、私が「意識のハードプロブレム」と呼んでいるのは、どのように感じるかといことを一人称視点で考えることなんです。

H:この問題に関してはもうひとつ有名な定義があって、おそらくあなたも影響を受けたのではないかと思うのだけど、トーマス・ネーゲルの「こうもりであるとはどのようなことか(What Is It Like to Be a Bat? - Wikipedia)」というものがありますね。そのなかで彼が述べているのは、「もし、それが何らかの情報を処理する生き物のようなものであるなら、つまり、もしその処理に内的に、主観的に、且つ定性的な特徴があるのであれば、それが「意識」だと。それがコウモリの場合でも、他の何かであっても。この定義を気に入らない人は、それはただ問題定義をしているだけじゃないか、と主張しますが、私は意識が何かという初歩的な定義のひとつとしてとても惹かれますね。あなたはどう思いますか。

C:定義としてはこれ以上良いものはないんじゃないでしょうか。大雑把にいうと、もしそのシステムのようなものがあるのだとしたら、そのシステムには意識があるということですよね。つまり私になるような何かがあるということです。そして反対に、例えばですが、この机の上にあるコップの水の気持ちになることはできないです。もし、コップの水になることができないのであるならば、それはつまりコップの水には意識がないということになります。

私の精神の状態についても同じです。例えば、今、窓の外の緑の葉を見る私があります。つまり、私の意識があるという状態です。しかし、私の頭の中では、とうてい私とは思えない無意識に言語処理をする何かがあるかも知れません。例えば、私の小脳のなかで稼働しているモーターのような感じです。それは、私である状態かも知れませんが、意識のある私の状態ではありません。そのような状態を経験する私はいないからです。

ですから、ネーゲルの意識の定義はとても分かりやすくて便利だと思います。とは言いつつも、それはただの言葉ですよね。この「ただの言葉」がとても役に立つという人たちもいます。主観的な観点からの意識というものがあると考え始めるきっかけになるんです。でも、ピンとこない人たちもいるんですよ。「…であるとはどういうことか」という言葉が響かないんですね。僕の長年の経験から、このネーゲルの言葉っていうのは考えるきっかになる人もいるけど、ならない人もいるということなんです。

たいていの人はなんらかの「問題」があるということは理解しているんです。でも、「問題」があるということを認識したあとにどうするかは人それぞれなんです。「ハードプロブレム」なんて幻想だよという人もいます。なので、まずは「イージープロブレム」と「ハードプロブレム」を分けることから始めるのがわかりやすいのではないかと思ってます。「イージープロブレム」は単に機能が動作しているだけのことです。一方で、「ハードプロブレム」は経験についての話です。

まずは「イージープロブレム」ですが、それは私たちがどのように環境の中の情報を識別し、適切に対応しているのかということです。どのように脳が異なる情報を統合しているか、そして、その情報を使っていかに我々の行動をコントロールしているのか。私たちは、どのようにして自分の行動を自発的に制御し、置かれた環境に対して制御された方法で対応しているのでしょうか。脳はどうやって自分の脳の状態を管理しているのでしょうか。これらの疑問の多くはまだ謎に包まれています。脳科学はまだこれら多くの疑問を解決するには至っていません。しかしながら、研究プログラムの内容や、それを説明するために必要なことは、かなり明確に把握できています。それは、脳の中で情報を処理して行動を制御している機能を見つければ良いだけなんです。もちろん、その機能を見つけるのは大変なことなんですが、いずれはできるでしょう。

「イージープロブレム」というのは、少なくとも脳科学や認知科学の基本的な分野に落とし込むことができます。それでは、経験に関する「ハードプロブレム」が難しいのはなぜでしょうか。それは、行動や機能の問題ではないからなんです。つまり、私の脳がある刺激に対してどのように反応しているかを説明するのは可能なのです。私の脳がその刺激をどのように識別し、統合し、監視し、私の行動を制御しているのか。それらはすべて神経というメカニズムで説明することができます。でも、それでは本当の問題に答えることはできません。つまり、なぜ、誰かの一人称的視点で「何か」を感じるのはどのようなことか、という疑問です。

通常の神経・認知科学で行われる「仕組みを解明する」という方法はここでは役に立たないのです。もちろん、脳の働きと意識の欠片との間になんらかの相関はあるでしょう。例えば、赤い色を見たり、痛みを感じだ時に脳のある特定の部分が反応を示すかもしれません。でも、なぜそのような脳の反応が、内側から何かを感じるのかを説明するわけではありません。なぜ、そのような反応は「無」の中で起こらないのでしょうか。もし私たちがロボットやゾンビだったら主観的な経験は起こりませんよね。

これが「ハードプロブレム」です。そして、人々はそれぞれ違った見解をも持っています。例えば、ダン・デネットはそんなのはすべて幻覚だと切り捨てます。もしくは、ただ混乱しているだけだからさっさと忘れてしまおうと。その可能性も十分あると思っています。これは本当に難しい問題なので、全ての可能性を考慮するべきだからです。そして、その一つの可能性というのはダン・デネットが主張する幻覚です。

しかしながら、意識が幻覚だというのは、どうしても信じがたい部分もあるんです。私にとって、この世界で最も現実なのは私が痛みを感じることです。私が視界を通して経験することです。私が考えることで得る経験です。ダン・デネットは、1991年に出版した『Consiciusness Explained (Consciousness Explained - Wikipedia)』において、非常に厳しい見解を示しています。素晴らしい本ですし、とても影響力のある本です。でも、多くの人が最終的には「意識」という現象を正当に説明できていないと感じたのではないでしょうか。

H:このトピックに関連した本で私が初めて読んだのはこの本だったかもしれないです。不思議なのは、この心に関する哲学的問題に関しては、私はあなたやネーゲルと同じ考えなんです。それなのに、宗教と科学との間に存在する対立に関しては長い間ダンと同盟を組んでいたんですよ。相当長い時間をダンと共に過ごしたんですが、なぜか意識に関して会話する機会はなかったんです。もしかしたら、私たち両方ともその話題に関してはうんざりしていたのかもしれません。当時、自由意志の話題に関しては彼とはちょっとした不幸な対立もありましたしね。私が最後に「Consciousness Explained」読んでからずいぶん経っているんですが、彼は意識は幻想だと言っているんでしたっけ。それとも、「ハードプロブレム」が難しいということが幻想だと言っているんでしたっけ。確か後者だったように記憶してるんですが。しかし、前者に関して言うと、私にとっては意識というのはこの世界において唯一幻想にはなりえないものだと思うんです。たとえ我々がその他多くの事に関して間違っていたとしても、私たちが私たちである何か、あるいは、何かが起こっているという感覚、たとえそれが夢を見ている時であっても、何かを見ているという感覚は、そこに意識があるという決して否定のしようのない現実があると主張せざるを得ないものだと思います。意識が幻想だという説得力のある説明ができる人はいないと思うんですよね。

C:私も同じ考えです。ダンの見解というのは長い年月をかけて確立されたものだと思います。1980年代の頃のダンはもっと強い調子で「意識は存在しない。それは幻想だ。」と主張していました。それから、「On the Absence of Phenomenology(現象学の不在)On the Absence of Phenomenology | SpringerLink」という論文で現象学などというものは存在しないと主張しています。現象学というのは、意識を言い換えたようなものです。さらに、[
Quining Qualia(Quining Qualia (tufts.edu))」では、クオリアという考えを完全に捨てないといけないと言っています。クオリアというのは、哲学において経験の質的特徴を表すために使われる言葉です。例えば、赤を見ることと緑をみることの違いを表すといったことです。これらの経験にはそれぞれ異なる特性があります。それに対してダンは「そんなの間違いだよ。そんなものは存在しない。」と言ったでしょう。
しかし、しばらくして彼は自分の考えにちょっと無理があるかなと思い始めたようです。つまり、一人称の観点からクオリアは存在しないとか、赤を見た時と緑を見たときに何も違いがないという主張は無理があるかなと。なので、彼は徐々に主張を変えました。「確かに意識は存在する。でも、それはあくまで機能や行動だったり、情報が符号化されているだけだという意味で、『ハードプロブレム』を生み出すような現象学的な意味合いの意識ではない。」
ある意味、彼はそれ以前の自分の見解を違う言葉で言い換えているだけです。これは自由意志に関する討論でよくありますね。例えば、「自由意志は存在しない。」というと、それに対して相手は「自由意志は存在するよ。でも、特別に重要なものではないよね。決定論と互換性があるだけの話だよ。」つまり、同じことを違う言い方で表現しているだけです。ダンは以前は意識は存在しないと言っていた。今は、「意識は存在するけど、それを大きな問題として取り上げる必要があるものではない。」と言っている。つまり、同じことを違う言い方で表現しているだけです。ダンは今でも「ハードプロブレム」を作り出すような主観的な意味での強い意識というのは存在しないと思っている。

H:もう一度ハードプロブレムがなぜ困難かという話題に触れたいのですが、あなたは、機能を理解するということと、経験が存在するということを理解する、という二つのことを区別しますよね。我々には様々な機能が備わっていて、それはモーターのような機能であったり、見たものを知覚する機能であったり。それらのことを機械的に説明するのは簡単なことです。例えば視覚に関して言えば、光のエネルギーを神経化学的な事象に変換して、視覚野を視覚野の関連する部分にマッピングするということで説明ができます。もちろん複雑ですが、原理的にはわかりにくい話ではないです。しかしながら、「あるものを見るときのような」ということは、どれだけマッピングをしてみてもわかりにくいです。
それに、もし私たちができることはなんでもできるというロボットを作ったとして、たとえそれがどんなに精巧にできているとしても、そのロボットが意識を持っていると考えることはないのではないかと思うんですよ。たとえそのロボットがチューリング・テスト(チューリング・テスト - Wikipedia)に合格したとしてもです。
だから私はAIに関して心配しているんです。私たちは近い将来に意識を持っているように見える機械を作ることができるでしょう。そうすると、あまりに良くできていることから、ハードプロブレムのことを見失ってしまうのではないかと懸念しているんです。そのロボットになるとはどういうことかという「何か」があるのかどうかという疑問は、哲学的に興味深いものでもなくなるし、倫理的に問題があるかも知れない。それでもなお、私たちがどのようにして意識が生まれるのかということをまず理解しないことには、そのロボットに意識があるのかどうかもわからない。つまり、まずはハードプロブレムを解かないといけないわけです。

C:おそらく、意識があるのかどうかという問題と、意識をどう説明するのかという問題は区別して考えたほうが良いでしょうね。
もしロボットが私たちの生活に溶け込んでいて、人間と同じく意識を持っているようにふるまっていたとします。そして、ロボットがこう言うのです。「この意識の問題っていったい何のことなんだい。だって、僕は単なるシリコン基盤の集合体だけど、内から感じる何かがあるよ。」もし、ロボットがこのように感じているのであれば、僕はロボットにも僕と同じように意識があるんだと納得します。でも、だからと言って意識の問題が簡単になるわけではないですよね。むしろ、より不思議になります。なぜこのロボットは単なるシリコン基板の集合体なのに意識があるんだろう。私の脳内でなんらかのプロセスが起こっていることと同じです。別にシリコンが脳に著しく劣っているわけではないですよね。どちらのケースの説明でも不思議な部分があるのです。
そして、他の人の意識に関して同じ疑念を抱くことも可能ですよね。これは他人の心に関するとても古典的な哲学の問題です。自分以外の誰かが意識を持っているかどうかをどうやって判断するのでしょうか。デカルトは「ひとつだけ確かなことがあります。それは私に意識があるということです。我思う、ゆえに我あり(我思う、ゆえに我あり - Wikipedia)。」と言いました。でも、それだけだとデータサンプルはひとつしかないんですよ。自分には意識があるということしか証明できない。しかも、今この瞬間だけしか意識があることは証明できない。だって、過去の私に意識があったかどうかをどうやって証明しますか。今この瞬間以外はすべて憶測や推定でしかないんです。だから、ほとんどの場合に他人にも意識があることが当たり前だと考えています。でも、AIやロボットの場合だったり、動物にも意識があるのかどうか、というふうに考えを広げていくとますますわからなくなっていきますよね。

H:AIやロボットの場合の違いは、おそらく人間の神経システムの働きとは異なった形で設計されるのではないかということです。例えば、人間はチェスをプレーすることができるコンピューターを作りましたよね。そのコンピューターはチェスのことはおそらく何も知らないのだけど、それでも世界で最も強いチェス・プレーヤーなんです。もし、何千とある人間の属性を真似ることができるコンピューターを同じように生み出して、人間と全く同じことができるようになるとしたら。いや、もしくは人間より優れていたとして、しかも顔の表情も説得力があって人間味があれば、もはや私たちはロボットを機械だとか気味が悪いとは感じないでしょう。でも、もしこのシステムが我々の神経システムとは異なった設計をしていたとしたら、そのロボットに意識があるかどうかを確認するのは難しいですよね。一方で人の場合は、私にとって意識を生み出すのに納得的な構造は、たぶん他の人にとっても納得的なのではないかと思うのです。独我論(独我論 - Wikipedia)は、哲学的に言えば、あまり魅力的ではありません。なぜなら、私が意識を持つようになった経緯と、あなたが自分にも意識があると主張するようになった経緯には、深い類似性があるからです。自分の場合は明らかにそうだったのに、あなたの神経システムや世界における状況には、意識を生み出すのに十分でなかったと主張するのには無理があります。他の人や高等動物に意識があるのかと疑うことは、決して問題の複雑化を避けているわけではなく、むしろより手間のかかる課題なわけです。









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