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Making Sense - The light of the Mind 4

A Conversation with David Chalmers

H:ゾンビの議論に関してもう一つ質問があります。それは、ゾンビ自身が自分たちに意識があるかどうかについて議論することができるのか、というものです。
私の双子のゾンビがいたとしましょう。なんの経験もしたこともないけれども、私と同じように行動して話をする瓜二つの双子が意識について考えたり、「あなたには主観的経験があるが、私にはない」と言ったりする動機は何でしょうか?どうやって経験と非経験を区別するのでしょうか?

C:これは難しいですよね。恐らく、ゾンビの思考実験の中で最も難しい問題だと思います。ゾンビには意識がないのに、なぜ意識について話をしているんだろうか、ということですね。もし、主張が単純にゾンビは存在するということであれば、それほど受け入れがたいものではないです。今、私はあなたと話をして、あなたは意識についてたくさんの話していますので、おそらくあなたは意識をもっているのだろうと考えることができる。それでもなお、あなたは実はゾンビで意識を持たないのに、意識についてとてもたくさんの話をしている、という仮定をもつことはできます。
それは、なんの矛盾もないように思えます。でも、だからと言って、そのような状況が存在し得ると考えるのは軽率かもしれないし、その状況を理解するのが容易になったり、説明することができるというわけではないです。もし、本当にゾンビがいたらおそらく意識の話はしないでしょうね。
ゾンビの思考実験というのは、重力が存在する世界で無重力の話をするようなものです。しかし、基本的な考え方としては、我々の言動のすべては脳によって司られているとういうことだと思います。そして、我々の様々な言動を説明するその何かというのは、ゾンビの言動も同じように説明することができるはずです。

H:では、問題は我々が意識について話をしているのは、脳の仕組みだけで説明可能かどうかということですね。

C:私はこういう可能性もあるかなと思っていることがあるんです。意識という経験を物理的な観点から説明するのは難しくても、我々が意識について語ることは物理的な観点から説明できるのではないかと。なぜなら、語るという行動は物理的な反応ですよね。つまり、「イージープロブレム」の範疇だということです。科学的研究としては簡単かも知れない。「私たちが意識について語ることを、物理的な観点から説明しなさい」といった感じで。もしかしたらできるかも知れませんよね。
もし可能だとしたら、いくつかの選択肢があります。ダン・デネットの主張のように、「人々が意識について語ることはすべて説明できた。これ以上説明することはない。あるとしてもそれは幻想だ。」となるかも知れない。
もしくは、随伴現象説のように、「意識について語ることは説明できたみたいだけど、意識というのはそれについて語ることとは違うよね。意識とは何かを感じることだよ。」と言うかも知れない。
あるいは、「意識とはシステムの中に入って、物理的な役割を果たすものだ。ただ、我々はそれがどういうふうに起こっているのかはわかっていない。」という考え方かも知れない。

H:私はあまり行動主義の観点には興味をそそられないのですよ。なぜかというと、意識の実態というのは我々がそれについて語るという行動を超越したところに存在していると思うからです。ただし、随伴現象説から脱却するのが難しい。例えば、意識というのは私であるとはどういうことかという経験の一部だとしましょう。つまりある種の物理的事象の主観的側面です。そして、それが意識があるということです。つまり、私の意識とは私の脳が行っていることだということです。
そうだとしたら、意識が私たちの行動に影響を与えると主張するのは、なぜ意識が生まれたかという疑問を抱くことには繋がります。でもそれは結局のところ脳との物理的な相関についての話をしているということになりませんか。意識というのは、それが生じる少し前に起こった脳の物理的現象の結果だと。そうだとすると、意識が生じる仕組みから定性的な側面を随伴現象と結論付けて取り除いてしまっていませんか。

C:いくつかの仮定が必要ですが、あなたが言っている通りだと思います。もし、意識というのは物理的な相関とは全く別のもので、物理的相関関係が閉じたシステム、つまり、すべての物理的事象には物理的原因があるという閉じたネットワークのようなものを形成すると考えるなら、意識は随伴現象であると考えざるを得ないでしょう。
なので、そう結論付けないためには、以下の二つの考え方をとる必要があります。一つは、意識は物理的なネットワークそのものに存在していると考えることです。物理的ネットワークの基礎なんだと。二つ目は、物理的なプロセスというのは閉じたネットワークではないと考えることです。物理的なプロセスのどこかに様々な抜け穴があって、意識が入り込んで行動に影響を及ぼすと。量子力学ではそういった考え方をする人もいます。波動関数の収縮などが良い例ですね(波動関数の収縮 - Wikipedia)。もしかしたら、意識というのはそういうことが起こっていることなのかもしれない。いずれにしても、意識は随伴現象ではないと結論付けるには以上の二つのどちらかの主張しないといけない。

H:それでは、意識が現実の世界にとってより根源的なものであるという可能性について話しましょう。意識が情報処理を行うかなり原始的なモノにも宿る可能性について話されましたよね。あなたの本(The Conscious Mind - The Conscious Mind - Wikipedia)で、室温計のようなものでさえも意識がある可能性があると。なぜなら、それは情報を処理するものだからだと。その考えを更に深く追及すると、汎心論(汎心論 - Wikipedia)という考え方に突き当たる。意識は、実は情報処理という概念よりも手前にある現実世界の基本的な構成要素なのかもしれない。

C:意識が物理の根源的な部分に存在しているという考えですね。伝統的な汎心論と呼応する考え方です。すべてのモノには心があり、心とはすなわち意識であると。すなわち、システムそのものに意識がある。物理の基礎である原子やクォークや電子にも。
はじめはずいぶんとバカげた考えだと思うんですよ。なんの証拠もないし。でも、もしかしたらそういうこともあるかも知れない、と考えると哲学的には便利な側面もあることに気づきます。すべての物理的なシステムは少しの意識からできているという考え方に。もし、意識が全ての物質を形作るものだとしたら、あなたが経験していることや、私が経験していることという意識は、根源的なレベルでの小さな意識の集合だということになります。そうすると、意識は最初から物理的な因果関係のネットワークの一部なので、それと干渉することがないということになります。どうやったらそういうことになるのかというのは大きな問題なんですが、哲学的には魅力的な考え方ではあります。
その結果、哲学界でも科学界でも多くの人が過去数年で汎心論の研究をしています。この考え方がとても難しい問題を回避できるのではないかと考えているようです。

H:ただ、その考え方は私にとっては違った「ハードプロブレム」をつくりだしてしまうんですよ。例えば、脳の機能のいくつかはなぜ意識がないように見えるのか。汎心論だと、私の脳が「私であること」と「私であること以外」の間で明らかに分裂していることは、まだ謎のままです。

C:そうですね。汎心論は他の問題が生まれてしまいますね。なぜ意識が存在するのかという「ハードプロブレム」は、意識は根源的に存在しているという解釈で解決できます。例えば、時間や空間が存在することを受け入れているように。でも、まだなぜ私たちであるということがこういうことなのかを説明することができません。
これは、「コンビネーション・プロブレム(combination.pdf (consc.net))」と呼ばれているものです。例えば素粒子の中にある小さな意識の断片が集まって、私として統一され、私という境界のある、私の豊かな意識を生み出すことができるのだろうか。他にも、なぜすべての高度なシステムは意識を持っていないのだろうか。
それに対して、汎心論者はこういうでしょう。すべてのシステムに意識はあるんだ。ただ、私たちはその個々のシステムにアクセスすることができないだけなんだと。私という存在は、たまたま脳全体のレベルの意識と同一で、脳の半球レベルの意識ではないのです。それは、ニューヨークという都市全体の意識でもないし、また地球全体レベルの意識でもないと。
極端な汎心論者の見解では、なんらかの意識というのはすべてのものに存在しているが、脳には統一性と統合性のある特別な特性があり、単に意識があるだけでなく、知的で思考や一貫した物語を持ち、自分自身を説明することができるのだというかも知れません。そうすれば、このようなことを考えている唯一のシステムは、脳というひとつの統合したレベルのものだけであるという説明ができます。

H:あなたは汎心論は変わった理論だとお考えですよね。確かに、テーブルや椅子や、それらが構成されている素粒子のすべてが何らかのレベルで意識があると考えるのは普通ではありません。しかし、汎心論者は椅子は椅子といして意識があると主張しているわけではないでしょう。ただ、物質がその最も基本的なレベルにおいて主観という鈍い音を感じているのだろうということです。
だとすると、疑問に思うのは、もし汎心論が正しいとしたら、何か違うものが見えると期待するべきでしょうか。私はおそらく違わないだろうと思うのです。もし、椅子の原子があるレベルで意識があったとしても、椅子が私に話しかけてくるとは思えないです。そして、もし汎心論が正しいとしても何も違った世界を見ることはないだろうと考えるのであれば、なぜ汎心論が間違っていると考えることができるのかという難題を突き付けられることになります。汎心論が奇妙であるという考えは、現状の世界を前提とすると汎心論の世界はあり得ない、という考えが前提になっているように思えます。しかしながら、分析した結果、汎心論が正しかったとしても世界がなにも変わらないのだとしたら、それが奇妙な考えだと決めつけるのは難しいのではないかと思ってしまいます。それは空虚であったり、反証不可能であったりするかもしれませんが、なぜそれが奇妙なのかはわかりません。

C:汎心論が正しいのか、正しくないのか、直接的な証拠はありません。まったくバカげた仮定だと言う人もいます。もし、実証できないのであればそれは科学とは呼べないわけですから、真に受けるべきではないと。しかしながら、あなたが言うように、完全に否定することはできないのだから、まじめに受け止めるべきだよねと言う人もいます。
私は両方の言い分を理解することができます。意識の研究に関する全領域において、実証するというのはとてつもなく難しいことです。自分の状況に関して言えば主観的な証拠がありますが、他人や他のモノについてのことになった瞬間にその繋がりは間接的なものになります。例えば、人に関して言えば、その人が言うことを信用しますよね。もし、その人が自分には意識があると言えば、その言葉を証拠として大抵の場合は信じるでしょう。しかし、それ以外のシステムとなると話は別です。犬に意識はありますか。蠅はどうでしょうか。その証拠は間接的です。意識メーターなるものがあれば話は簡単です。そうすれば単純で客観的な意識の科学を実証することができます。メーターを椅子、蠅、原子、犬、他人に向けて測定すれば、それらの意識の状態が読み取れるのですから。でも、意識というのは個人的で主観的なものですから、それはとても難しいのです。
私はかつてCIAで意識について講演したことがあります。彼らはなんとなく退屈そうでした。でも、意識メーターの話になったとたん、耳がピーンと反応するのを感じたんです。「それは使える。金と時間と手間と水責めの節約になるな。」

H:嘘発見器も使えますよね。意識があるかどうかは別として、その人が嘘をついているかどうかは知りたいですもんね。そして、ロボットについても同じです。

C:少なくとも意識が我々の心理と相互に働きかける方法に、なぜかわかりづらくする何かがあるのではないかという可能性に耳を傾けるべきです。我々よりも数百万倍も知的な生物にとっては意識というのは大した問題ではないのかもしれない。
もしかしたら、私たちは偉大なる妄想の被害者なのかもしれない。そして、この問題に関して何か大きな勘違いをしている可能性があるということを真摯に受け止めるべきだと思います。あるいは、我々が理解できる世の中のことはとても限られているのかもしれない。例えば、我々は世界の数学的な構造を科学的に理解することは得意です。でも、数学は人間にとって必ずしも自然なものではありませんが、人間にとってかなり扱いやすいものであることがわかります。
しかし、その数学的構造と意識の伝達をインターフェースで結びつけようとすると、もしかすると脳の2つの側面があまりにうまく機能しないのかも知れない。例えばもっと複雑な、統一されたストーリーがあるのかも知れない。もし私たちの頭の中に意識メーターがあって、起こりうるすべての固有の意識の状態にアクセスできて、私たちであることがどういうことかだけではなく、コウモリであること、ネズミであることなども直感できたとしたら、もっと巧くいくかもしれませんね。
でも、そうはいかないんです。少なくとも今の手持ちの知識では。ですから、今あるリソースの中で想像しないといけない。謙虚になってね。哲学者のコリン・マッギン(コリン・マッギン - Wikipedia)は、謙虚ということを極限まで追求します。彼は、この問題を解決することはないだろうと主張するのです。なぜなら、我々は頭が悪過ぎるからです。我々の脳は哲学をするために進化したわけではないからです。意識という難問に対する完璧にわかりやすい解答はどこかに存在しているのに、私たちがそれをつかむことができないだけだと言うのです。
昔、これに関してコリンをからかったことがあります。ダン・デネットの「Consicousness Explained」に関するコリンのレビューを読んだことがあるんです。コリンはこのレビューにはあまり感心していませんでした。そこには、「いいかい、この本はバカげてるよ。意識に関する理論とは到底思えないよ。」といった内容のことが書かれていました。すかさず私は、「コリン、もし君より数百万倍知的なものによって意識の謎に関する解答が書かれていたとしたら、果たして君はどうリアクションするかな。」たぶん、レビューを読んだ時と同じように卒倒せんばかりの勢いで批判するだろうな。だから、少なくともダンが間違っていないという可能性も考慮しないといけないんじゃないかと思うんだ。

H:それは正しいね。ダンは君が彼を擁護したことを知っているのかな。

C:彼には伝えたよ。何年か前にダンとその他の人達とグリーンランド近くのクルーズ船に乗っていたんだ。ポール・チャーチランド(ポール・チャーチランド - Wikipedia)、パット・チャーチランド(パトリシア・チャーチランド - Wikipedia)、アンディー・クラーク(Andy Clark - Wikipedia)、ニック・ハンフリー(ニコラス・ハンフリー - Wikipedia)とかと一緒に。皆、ダンと同じように意識は幻想だという考えの人達だ。そこで、氷山を見たり、素晴らしい景色の中を航行したりする合間に、1週間ほど彼らと討論してみたんだ。私は彼らの考え方が全くありえないものだと思うけど、少なくとも意識に関する理論における主な選択肢の一つとして、唯物論者や還元論者が展開すべき種類の見解だと思んだ。

H:記事の中で、「我々はもしかしたら単なる入れ物に入った脳なのかもしれない。つまり、マトリックスの世界だ」という考え方に対して、あなたはとても刺激的な見解を展開しましたね。もし、それが事実だとしたら、意識ではなくて、現実がある種の幻想だということになりますね。繰り返しになりますが、意識というのは唯一幻想ではありえないものだと思うんです。もし世界のすべてが我々が考えているようなものでなかったとしても、それがそのように私に見えているということは否定のしようがない事実です。しかしあなたは、もし私たちがマトリックスの世界にいたとして、全てが幻想だとしても、テーブルや椅子や世界や他の人達は、一般的に幻想と言われているような意味での幻想ではないと言った。これはどういう意味ですか。

C:ニューヨークのアメリカ自然史博物館(アメリカ自然史博物館 - Wikipedia)で、この件について議論したことがあるんです。「果たして世界はシミュレーションなのだろうか」と。その時は、ニール・ドグラース・タイソ(ニール・ドグラース・タイソン - Wikipedia)、マックス・テグマーク(マックス・テグマーク - Wikipedia)、リサ・ランドール(リサ・ランドール - Wikipedia)、ジェームズ・ゲイツ(Sylvester James Gates - Wikipedia)、ゾーラ・ダヴァウディ(Davoudi, Zohreh - UMD Physics)などがいました。とても楽しかったですよ。私たちはマトリックスの中に生きているという考え方は、ニック・ボストロム(ニック・ボストロム - Wikipedia)が統計的な推論を展開したこともあって、最近よく耳にするようになりました。シミュレーション技術の向上により、多くのシミュレーションが開発されるでしょうから、やがてシミュレーションされた人間の方が、そうでない人間よりも多くなり、それが私たちなのかもしれない。これは、デカルトの思考実験を彷彿とさせるので、哲学者としては最高ですよね。もしかしたら、私たちは悪の天才に騙されて、この世界が存在すると思い込んでいるのかもしれません。基本的な考え方としては、もし私たちがマトリックスのようなシミュレーションの世界にいるのだとしたら、全ては幻想だということになります。マトリックスの中にいる間は、ネオにとってテーブルや椅子や革のコートやエージェントはすべて存在しているように見えます。でも、全てが幻想なのです。
私は、全てが幻想という仮定におけるそのような設定は間違っていると思うんです。私たちがシミュレーションの中にいるという考え方はとても真剣に受け止めています。それが本当かどうかは全くわかりません。でも、もし本当なら、もし、シミュレーションの中に生きているのだとしても、全てが幻想ではないはずです。テーブルや椅子や木がないということにはならないと思います。むしろ、私たちが最初に考えたのとは異なる形で存在するのではないでしょうか。私たちが物理的な現実だと考えていることの下には、様々な計算のグレードがあるのです。
これは、何人かの物理学者の間で真剣に受け止められている仮説です。「It from Bit(デジタル物理学 - Wikipedia)」と呼ばれていて、情報が物理を生み出すという仮説です。それは、木が存在しないとか、原子が存在しないといった世界観ではありません。もし、私たちがシミュレーションの世界に生きているとしたら、私はこう言うでしょう。「なるほど。すべては現実だけど、私たちは情報の世界に住んでいるんだ。」つまり、世界は物理的であるというよりは、情報的であるという意味です。マックス・テグマークはこの考え方が好きです。なぜなら、それは彼の数学的な世界という考え方と良く合うからです。しかし、考え直すきっかけになりますよね。すべてはシミュレーションだという仮定もそれほど恐れるものでもないと。

H:もし、未来に生息する存在がモルモン教の人だとします。恐らく、現実の世界よりもシミュレーションの世界が圧倒的にたくさんあるので、私たちは現実ではなくてシミュレーションの中にいる可能性が高いとすると、モルモン教の宇宙をシミュレーションした世界にいることになるかもしれませんね。そうなると、私がこれまで宗教全般やモルモン教について述べてきたことはすべて間違っていることになります。ボストロム(ニック・ボストロム - Wikipedia)の考え方に倣ってそのように考えるのであれば、物事はいくらでも奇妙で辺境になってもおかしくありません。

C:私は神とかに関しての考え方は無神論者です。でも、シミュレーションということになると、創造者が存在するかもという考えに関してもう少し真面目に考えるようになりますよね。私たちのこの身近な世界には創造者がいるということになります。私はこれをシミュレーションの神学だと思っています。シミュレーションの創造者の性格なんかを想像したりして。もしかしたら、となりのシミュレーションの世界の子供のハッカーだったりするかも知れませんね。








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