始まりの寂しさ。垣間見える神。他者と、大きな存在に包まれる時間。
「あと4日で終わると思うと、旅の終わりのようで寂しくなります。」
とあるアートフェスの始まりの挨拶で、フェスのアートディレクター、あきこさんは言った。
始まりなのに、もう寂しくなる。そんな気持ちになったことがある。
例えば、料理。食べるのはあっという間なのに、準備には、その何倍もの時間がかかる。もうすぐご飯の時間がくる。さぁ、はじまるぞ!!という昂揚の中に、その時間が終わりたくない寂しさが混じる。始まってもいないのに。
スカパラのドラマーきんちゃんが「終わらないセットリストをつくれればいいのに!!」とライブで叫んでいたのも、思い出した。曲を作り、リハを重ね、その日を迎えたスカパラの人たちは、ライブの数時間のために、どれだけの時間をかけているのか。
ライブが全てではないけれど、ライブは特別。何十回と演奏しているお決まりの曲だとて。演者と客の一体感というか、あの感じは、本当に特別なものだ(演者でもないくせに)。
「それでは、次の曲!!」ときんちゃんが叩いたドラムの音は、他の音色とともに、暗夜行路になっていった。残念ながら、その日も終わらないセットリストではなく、翌日はいつもどおり仕事の日だった。それでも、受け取った自分の中で、こうして何年かぶりに思い出したりできる。それは、スカパラが集中力をそこに向けて、時間や情熱をかけてくれたおかげだ。
その日のライブに一緒に行った友人ふたりは、結婚して子どももできた。あれから、そういえばスカパラのライブにも行ってない。あれから枝分かれをして、それぞれの日々を生きている。
その思い出があったからと言って、どうということではない。ただ、ふとこうして時間や場所を超えて「あいつ、元気かな?」と思い出すことがある。
あきこさんは、その挨拶で「ここにいる皆さんと、今ここで、もう一度出会い直せたらいい」とも言っていた。
(↑このイベントに行ってきました。)
出会い直す?
’’出会い’’はいいけれど ’’直す’’ ってなんだ?と思っていたら、HPでの挨拶にも出会い直す。と書いていた。
「出会い直す」は「やり直す」に近いのかもしれない。そして、大不調中の自分としては(鬱になってしまった。仕事も休職中。そのことは、またいつか。)今回の旅は、今の自分自身と出会い直すための時間にしようと思った。
良くならない体調、不健康な生活、孤立している日々、経済的な不安、続かない仕事、お金、死にたくなる気持ち。無気力感、もたない集中力、集中するべきものが定められない判断力。
家から出るのも10日ぶり。そんな、自分と出会い直す。
どう出会い直せばいいのか。
「やぁ、ひさしぶり〜」と、久々の友人に出会うように。今の自分と、ふつうに出会おう。そうしよう。これが結構、中々できない。今までの「ふつう」が続かないことに、イラつく、責める、あきらめる、ふさぎこむ。
でも、これが今の自分の「ふつう」なのだ。認めたくないけれど、受け入れられないけれど。
逆に言えば、ふつうに「やぁ」と言えない日々が続いていたのか。と、気がついた時間でもあった。教えてくれたのは、一緒にウォールアートフェスティバルに行った、中村家の翔くんだ。知り合ってから、もうすぐ10年になる。ダウン症の子。
気仙沼のつなかんという宿で料理つくっている時に出会って。お客さんと料理人という関係を超えて、中村家とは旅をしたり、アスパラ狩りに行ったり、つなかんに遊びに帰ったりと、いつもお世話になっている。
翔くんは、こっちがどんな時でも、変わらない。早起きで「おはよー!!」と起こしてくれて(早すぎる時が多い)、ご飯をモリモリ食べ、心と生活が安定している。
目覚ましをかけなくても、大好きなラグビーの試合があれば、朝4時に起きるために早めに寝て、目覚まし時計がなくても起きる。いつでも、美味しそうにご飯を食べる。嫌いなものが残っているとお母さんに言われると「もうお腹いっぱいです。」とお父さんの真似をして。ご馳走様をする。
そういえば、この10年、彼が崩れたところを見たことがない。安定の翔くん。図らずも、色々ありすぎて、不安定な10年間の中で何かが壊れた自分。
翔くんは、励ましてくれるわけではない。なんの恣意もない。それでも、頭を撫でてくれて、グータッチをして、温泉に入りましょうと誘ってくれる。相手の条件に関係なく、いつも通り、優しく、そこにいる。それが特別なことに思えたということは、おそらく自分自身が、翔くんのようにできていないからだ。
あぁ、こういうフォームで投げればいいのか。と正しいボールの投げ方を見せてもらった感じ。フォーム崩れてるよ、と見本を見せて教えてくれた。
あとは、圧倒的な大きさのアートに包まれたということも大きい。スカパラの演奏ではないが、時間・集中力・情熱をかけなければ、習得できない技術で表現された存在の中にいる。相手が広く大きいほど、自分の価値が薄くなっていき、楽になる。
小さな娘さんを亡くした方が「そのときは、自分の価値をできるだけ下げて考えていた。自分が大したものでなければ、その悩みも大したものではなくなるから。」と話していたけれど、そんな感じかもしれない。
TED TALKSに「EAT,PRAY,LOVE」の著者、エリザベス・ギルバートさんのスピーチがある。「EAT,PRAY,LOVE」がメガヒットとなり、それを超える創造ができない苦悩、創造や才能、仕事について語る名スピーチ。その中に古代民族の踊りと神について述べる箇所がある。(下の訳を読むだけだと味気ないかも。スピーチ自体が素晴らしいライブのようなものなので、ぜひ聴いて欲しい)
エリザベスさんが言う、神を垣間見るような瞬間。描いているアーティスト達に降りてきていたんだろうな。そう感じる作品に囲まれる。
自分が何者でなくても、誰かに降りてきた、神性を感じられること。肯定もせず、否定もせず、何もせず、そこにいれたこと。それもよかった。
ツアーの終わりは「じゃねんずによるリズムワークショップ」だった。そこにいた30人のアーティスト、お客さん、主催者、皆で太鼓を叩いた。ひとりひとりに太鼓が配られる。じゃねんずのリーダー、傍嶋飛龍さんのジェスチャーに合わせて、感じたことをそれぞれが自由に音にする。言葉もリズム感も正しさもないワークショップ。
翔くんは、はじめ全く叩かなかったが、とある瞬間から、目を瞑り、その時間に誰よりも没頭しだした。終わり、飛龍さんに「なんか、すごかったね」と微笑まれていた。
翔くんの演奏は、特別うまいわけではない。エリザベスさんのスピーチの中の踊り子のように、周りを魅了する演奏とも、残念ながら違う。それでも、あの一時の没頭感は、’’何かとつながっているんだろうな’’と感じさせるものがあって。「私は、ああなれないから、本当に羨ましい時がある。」
とお母さんがよく言うのも、わかる。
ウォールアートフェスティバルは、ワークショップも開催していて、プロのアーティストに混じって、過去の自分が描いた作品に会いにいくことが、誰にでもできる。
先に載せたスタッフが来ていたTシャツも、ウォールアートの一部でした。
教室のこのドアの絵、元素から生き物ができていく流れ、好き。所詮は生き物は皆、元素の集まりでしかないのに、なぜこんな色んな生き物に、枝分かれをしているのか。ヒトも他の生き物と変わらず、必ず死ぬのに、死ぬことを嫌がり、恐れ、それなのに生きることに積極的になれなくもなるのか。
その問いにわくわくしながら探求できた時期もあったのに、今は、そのことに謎も感じず、本を読む気持ちも起きない。不思議だ(それに、不思議と思える感情は、今、見つけた)。
そういう時間を過ごしてきました。皆さんありがとうございました。
↓展示期間、終わっていますが参加しているアーティストのTシャツ、ここで買えます↓
最後、めちゃくちゃ宣伝みたいになってしまったけれど。続けるには、お金も必要。気が向いたら買ってね(売上は運営費用になるそうです。)。
読んでくれてありがとうございます。
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