書き下ろし/『3年半ぶりの僕のパリ。』 その四-いくつかのコレクションを見て。
文責/平川武治:
初稿/2023年07月23日:
タイトルイラスト/村上豊:「はだかの王さま」より。
はじめに;
いつの間にか、”ファッションの素人たち”が、
与えられたその立居場所で、何ら新しい創造とは全くの別世界で、
変わらぬそれなりの品性の元で、”fame, fortune and money"の為、
我が物顔で、”金鍍金の世界”ではしゃぎ回されている
"Chained Fashion People"たちは
『”与えられたフレーム”の中で、自分たちが求める”自由”を謳歌する。』
こんな時代の先端の真っ只中で彼らたちはこれからも
どのような輝くまでの、”夢”を見せてくれるのだろうか?
冷静に見ると、この状況とは
白人富豪層が仕掛けた、今世界に蔓延してしまっている、
”格差社会”における新たな中産階級のための「消費社会」を
生み出すための使い古されてしまった、
”消費社会パラダイム”そのものでしかない。
いつも「仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が同じ」世界のみが
その目的、”fame, fortune and money"を手に入れられると言う
パラダイムがある種の歴史を作っていることを如実に
認識させられる今の”ファッションの世界”でしかない。
巷のファッションメディアに拐かされないように。
だから、あのH.C.アンデルセンが1836年に書いた童話「裸の王様」は
モードを論じる人たちにとっては未だに、新鮮なる”名著”なのである。
参考/「はだかの王さま」:村上豊 絵/木村由利子 訳:miki house発行。
1)「さすが、エルメス、”エルメスエレガンス”が凄い!」/
”向こう岸へ行かなかった、エルメス。”が今回の僕のタイトル。
コレクションで見せた、”エルメスエレガンス”。
僕とデザイナーヴェロニック(Veronique Nichanian)は、
26年ほどの付き合いになる。
先代名物社長、ジャン・ルイ・デュマ(Jean-Louis Dumas)の
ミッションを'88年に受けて以来、
彼女は、"HERMES HOMME"をデザインして、35年の現役を続けている。
昨今の”金鍍金用ファッションDJ”が
ギラついた眼差しで、ザッピングし始めるパリファッションウイーク、
こんな時代では、パリに限らず世界でも
彼女、ヴェロニックのアクチュアリティと経験値とスキルに
対峙するデザイナーは皆無である。
そんなヴェロニックが見せてくれた
”シャツ&パンツ”というコーディネートを4体ほど出した
スタイリングに魅了させられた僕。
一番シンプルで、一番かっこいい男を熟知している彼女が表現した
”エルメスエレガンス”が即ち、”フレンチ エレガンス”というまでの
プライドを感じさせるコレクションだった。
例えば、シャツが一番似合う男は?
「そう、フランスの男たちよ!」である。
これは母が僕が中学生の時に教えてくれた
フランス映画が好きだった母の一言であった。
今の若いファッション ジャーナリストと称するレポーターたちは
所詮、”ファッションDJ”に煽られた人種。
"ギラギラファッションDJ”の周りに寄り集まってくる
”蛾”のようなもの。
コレクション会場の”フアースト ロー”に座りたい輩たち。
なので、彼らたちには
この今回のヴェロニックの凄さや旨さ
それに勿論、”エレガンス”の根幹が理解できない。
『”エルメスエレガンス”即ち、”フレンチ エレガンス”』
L.V.旗はためく、”騒めく川向こう岸”から遠く離れて
決して、近寄らないコレクションを
彼女の空気感で堂々と成し遂げた
大好きなヴェロニックの自信とキャリアとセンスに完敗。
あなたの変わらぬ笑顔へと共に
"Merci beaucoup et une grande reconnaissance ❣️”
2)「パリへ戻ってきた、KOLOR」 /
その顔つきは"Wスタンダード”。
「デコトラ」美意識がベースのハイ・ブリッドストリート。
このデザイナーのデザイン根幹は変わらぬ
”トーキョーストリートカジュアル+α”
彼が差し出すこの+αがこりに凝ったものだから
モードの世界へ昇華される。
僕は愉しく観ってしまう。
一つのブランドが「世界進出」を目指すならば、
デザイナーが持つべき”ジャポニズム”観が必須である。
これが、「Wスタンダード」の根幹になる。
「それぞれのジャポニズム」を考察した時、
”トーキョー”をあるいは、”ジャポン”を装飾する根幹は
よく言われる、”足し算”か”引き算”だ。
KOLORも勿論、”足し算”の世界を丁寧に凝りに凝って
一つの世界観を構築する。
”素材感+パーツ感+プリント感そして、色相感”に凝るのだ。
これらの凝り方で、ただのストリートカジュアルな世界が
もう少し、”モード寄り”になる。
これがこのデザイナーの持っている勘と上手さだ。
この”足し算”の世界の極めあるいは根幹は”デコトラ”。
そして、”引き算”の世界は”ゼン”が極めになろう。
日本人以外のデザイナーたちはこの”足し算””引き算”の塩加減が
勿論、ザッピング&コピーできない。
ブランド”KOLOR"の巧さと面白さがここにある。
そして、久しぶりで巴里で見たこの顔つきが、「Wスタンダード」。
”ストリートカジュアル:モード”、”足し算”:”引き算”
だが、根幹は”デコトラ”。
日本人の”ネイル技術”が世界一だということを思い出そう。
3)「不変になってしまった、CdGパラダイム」/
もう、多分何も起こらない”凄さ”とはこんなに退屈なのか?
僕のように、'85年来のこのブランドの立ち上げからを
見続けて来た者にすると、
この”表層の不連続の連続性”がまやかしでしかない世界を
感じてしまうからだ。
この根幹は、やはり”新しさ”を感じさせる
”ファッション パラダイム”そのものが変わらないことだ。
使い古された”パラダイム”は
”プロット&エレメント”の不連続の連続性でしかない。
何も起こらない”凄さ”が,すごいブランド"CdG H.P."
「一代完結」を意識し始めたのだろうかと?
”サスティナブルから遠く離れて!”しまった
”凄さ"あるいは、”恐ろしさ”も感じる。
4)「変わらぬ”コラボ依存症”はそんなに美味しいビジネスなのか?」/
新しさとしての”ファッション パラダイム”そのものを
真面目に考え込んだ”Junya MAN”コレクション。
そこで見つけられたのが”女目線”という眼差し。
一つの”眼差し”を構築する事の難しさ
そのものに挑戦したJunya MANコレクション。
”女目線”と言うまやかしは
”ユニフォーム”へ辿り着けるのだろうか?
まやかしのブランド力に頼り切って、
「最少のリスクとコスト」を張って、
「分の良い儲け」が得られる「コラボレーション」。
今世紀の、グローヴァリズムと共に登場した
新たな”ファッションパラダイム”。
実ビジネスをここに頼り切ってしまったこのブランドも
乱暴な言い方をすれば、
”ユダヤの森”に迷い込まされた
この”不連続の連続”というパラダイムのみで
明日を迎えるだけなのだろうか?
メンズにおいては、
自分が着たい服がデザインできないデザイナーで
終わってしまうのだろうか?
”森”から抜け出したいのか?抜け出せるのだろうか?
あるいは、”森”で彷徨っていたいだけなのか。
5)東京に来て、お節介な仲間たちに煽られ、
”ビジネス”を意識してしまったKiko Kostadinov /
このコロナ禍以前に登場してきた確か、ブルガリア人デザイナーの
初期は、独自性があって面白い視点で、ニートなデザインを
素材とプリントによって、エッジを効かせて見せていたはずなのに!
彼も、東京の”古着屋の入れ知恵ファッションDJ”になってしまった。
ラングや、ラフのデビューコレクションを見ている僕の眼差しは、
従って、全くもって、古い使いまわされてしまった、
”ファッションパラダイム”コレクションでしかなかった。
多分、このような学卒デザイナーは自分の持ち味としての
”ロコ デザイン”、”ロコ テイスト”、”ロコ センス”を
どれだけ認識し、自らのアイデンティティを
どのような”差異”としてデザインしているのだろうか。
東京を徘徊する、
”古着屋の入れ知恵ファッションDJ”たちのザッピングのネタ元は
”アントワープ系+CdG +U.C+H.ラング+ラフ+ネメス+ウラ原系”
などなど。
このタイプのファッションDJの腕の見せ所は、
どれだけの、”コンテンツと感覚と人間性”と
そして、今では”倫理観 ”によって
”ZAPPING"がなされ、コレクションを構築するか?
が、これからの時代性だと感じているのだろうか?
6)”舞台衣装”=”オート クチュール”になってしまう貧しさの世界では、
”パリのクチュール世界”から何を学んでいるのだろうか?
日本を代表するサスティナブル素材メーカー、”Spiber"社の
子会社として、親会社の世界戦略の一端で’19年から
”パリ クチュールコレクション”で継続している”YUIMA NAKAZATO"。
僕は”Spiber"社傘下にならない
彼の’16年から’18年までの
彼が目指していた世界観が好きだった。
そこには、彼が挑戦したい念いとアイディアと輝きが存在した、
未来へ向けての独自な”ファッションパラダイム”を
創造し始めていた時期だったからだ。
そこには彼の情熱が満ち溢れている世界だった。
”Spiber"社傘下後の'19年のパリでの
クチュールコレクションを見てガッカリした。
コレクションそのものがまとまりなく、センスが悪く、
また、”STUDENTS COLLECTION"レベルへ舞い戻ったと感じた。
この時、”サスティナブル”という言葉が無神経に、無表情に使われ始めた。
”Spiber"社の微生物発酵素材である”ブリュード・プロテイン”は
”共生”時代に先駆けた優れたサスティナブル素材であり、
まず、アウトドアーウエアーの世界で一足先に、
”The North Face"の看板素材になり、時代を先取りし、
'16年来、独走し続けている。
それなりの出会いが在って
現在も継続可能なまでの状況なのであろうが、
双方のミッションは何なのだろうか?
今回のコレクションを見ても残念ながら、
僕は彼ら双方の”ミッション”がそれなりの
”差異豊かな”世界を目指した眼差しであるのか理解できない。
あるいは、”新たなパラダイム”のためのミッションとも感じられない。
今彼らが”サスティナブルの世界”における「新たなパラダイム」を
”創造の世界”と”販売の世界”の両面で構築するべき、
すなわち、ある種の”利権”世界を構築する時代性でもあると
認識しているのだろうか?
”サスティナブル”を歌い上げるのであれば、
やはり、ロンドンの”VIVIENNE WESTWOOD”社の
「サスティナブル憲章’23年版」を一読し、理解するべきである。
コレクションで一番ガッカリしたことは、
”シューズ”に「心とお金とセンス」が、
そして、”輝き”が感じられなかったことだった。
「クチュールのトップにこのシューズなのか?」
デザイナー自身も周りの取り巻きも、無神経あるいは、無感覚。
メンズレディース3型ほどのシューズ、
だから、”yuima nakazatoの差異”を
「輝きと驚きとそして喜び」を創造すべきであった。
これが、パリのクチュールという世界である。
彼は、コレクションを日本から持ってきて
会場としてのパリでショーを行うことが、
”パリのオートクチュールの世界に進出。”であり、
決して、”パリのオートクチュール”の世界から
何かを学んではいなかった。
文責/平川武治。
初稿/2023年07月23日。
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