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"The LEPLI" ARCHIVE 103/ 『時代が齎した、”新しい豊かさ”という リアリティ、「集団の夢」のための ”ファッション・パラダイム”を考えよう。』

文責/平川武治:
初稿/2013年7月15日:

はじめに、/
 嘗て、ファッションの世界が持っていた
「個人の夢」の時代はもう遠のき、
少しずつ、ファッションの世界も”保守の時代性”として
再び、「集団の夢」として広がって来た。
 それぞれの国における『イミグレーターたちがターゲット』と言う
西欧のファッション・リアリティが読み始められる。

そして、もう一度、「個人の夢」と「集団の夢」について、/
 今、ファッションに関わりたい人が考え思い悩む事とは、
「集団の夢」に対しての個人の関わり方である。
 ”自分本位”から、個人が”他者を想い合うこゝろ”を
意識しなければならないからだ。
 どのように自分が学びもち得たスキルと価値観を持って
”実社会にコミット”するか?
そして、”実産業”に寄与、貢献出来るかである。
 
 その為のこゝろの有り様が必要である。
その場合の”覚悟”が、”勇気”が
どれだけ有るかでしかない時代性だということである。

 こんな現代と言う時代性に未だ、「個人の夢」に逃げ込んで
むやみにデザイナーぶっている覚悟無き輩たちの
哀れな自慰行為そのものと自己肯定に
そろそろ、目覚めが必要であろう、
東京という”ファッション生簀”。

 なぜならば、”時代が持ち得た豊かさ”に感謝し、
その豊かさに委ねなければならない”新たな保守”という
新しい時代性を読まなければならないからだ。

 そこには自心のリアリティ、経験から生まれ持ち得た
『倫理』も感じられない大半の輩たちである。
大いなる、思い上がりからの自己肯定による
“他人のプライドに縋り付く自惚れ”集団。
ここでは所謂、
“礼節”と”思いやり”が欠如してしまっている根幹が読める。
家庭教育がなっていなかったのであろうか。
戦後の社会が必要としなかったのか?
 そして、ここでも『FUKUSHIMA』を忘れてはならないはずだが?

◉ファッションを論じる側も同じである。/ 
 もし、ファッションをこれからも論じるならば、
「個人の夢」を弄くり回しても終わっている。
現実離れをしてしまった時代遅れであり、論じる側のよくある、
ファッションという土俵に乗っての、分かったフリする
”インテリ-マスターベーション”でしかない。

 あのオウム事件のインテリと呼ばれた輩たちを、
宗教本を読んで宗教を解ったと思い込んでいた
教養ある”東大卒”の彼らたちを同様に思い出してしまう。

 報道され、見え透いた、
”虚実/なりすまし、なんちゃって”イメージを元にして、
ファッション論、リスクを持たぬ自己肯定論は
所詮、”類トモ”そのレベルでしかない。

 この実社会の現実、”リアリティ”を即ち、
「集団の夢」を自らの立ち居場所によって実感し、
スキルと眼差しでコレクションと読み合わせをすると言う
持つべき”リスク”を持たなければ
もう、逃げ足が速い世界のファッションは論じられない。
 即ち、東京に居て、巴里のモードは論じられないという事である。
極論すれば、東京の生活というリアリティがあれば
東京のファッションは論じられるという事でもある。
 
 そんな時代が今である。
与えられた、求めた”情報”を手段として
自分のリアリティを進化させてゆく。
若しくは、与えられた”情報”を鵜呑みにしてそこで論じる。
この違いであろう。

新世代の「倫理観」と言う彼らの眼差しは?/
 3年目になる日本人は
あの『FUKUSHIMA』から何を学んだのだろうか?

 「集団の夢」が余りにもお粗末であり、
「正義」に対してどう、向かいあって来たのか?
”なりすまし”と言う世界を学んではいないのだろうか?
 この”微温湯”をこれからの若い世代へ委ねてしまっていいのだろうか?
或いは、彼ら世代が自らの眼差しで、
「正義」に向かいあい、
立て直してゆかなければならない。

 彼らたちはもう、行動をし始めている、
彼らたちの本能で既に! 
ここに、新たな『倫理観』や『エコエティカ』思想が
勇気と力を与えてくれる。

「集団の夢」と言う新しい時代の自由さ。/
 「個人の夢」でファッションを論じても
所詮、それは既に通過してしまった絵空事、
或いは、子供の書いた絵本。
 自分たちの生/ナマ-生活場所である「集団の夢」から
ファッションを生み、論じ始めなくてはならない。
もうそのような時代なのである。
 ここに、ファッションはもう一つのカテゴリーが胎動し始める。
それが、「ユニフォーム」という世界。

 しかし、ファッションビジネスの価値根幹は
「集団の夢」と言う”トレンド”を発信であることを思い出そう。

◉巴里でのもう一つ、“CdG,H.P.“のショー/
 もう『PUNK』は起こり得ないのである。
あのS.メンケス女史も開催された、メトロポリタン美術館の
”PUNK展”についての論評は、
”全てが、ゴッコ”になってしまたのだ。”と暴露した。
それは『ナマ社会』が不在であるからだろう。

 今シーズンのCdG,H.P.のショーにしてもそれが云えた。
ファッション誌的カッコを付けて言ってしまえば、
「ソフュスケーテトされてしまったパンキィッシュコレクション。」
巧いこなし方であり、まとめ方である。
が、PUNKでは無い。
やはり、"Just variation of the Punk Collection"でしか無い。
だから、売れるコレクションである。

という事は、
時代性を狙った、“PUNK"というフレームにおける
ビジネスの為の”PUNKゴッコ”である。
 ”それでいいのだ!!”
バカボンの親父ではないが、これが売れるという味付けである。

 もう、「個人の夢」が消滅し始め、
それが「集団の夢」、「大衆の夢」へ広がった時間は
逆行してしまったのだから仕方ないであろう。
 あの、V.ウエストウッドのキングスロードの店頭にある
大時計は時間を今だに、逆走しているが止まらない!。
それが彼女、VIVIANNEであるからだ。

 ここでは、
『ブルジョアのプロレタリア化』と『プロレタリアのブルジョア化』という
公式が読める迄の時間の退化へ。

◉“ブルジョア指向”の実生活と言うPUNK、/
 
もう一つ、このブランドのコレクション後に考えてしまったのが、
“作り手とリアリティ”の距離間である。
 この川久保玲というデザイナーにおいては、
創造とリアリティに”距離”、或いは”差異”がある。
その彼女が持ち得た距離間をコンセプトとして創造がなされて来た。

 しかし、これはもう古くないだろうか?という疑問だ。
例えば、決して、彼女の実生活ではブランドを立ち上げた'69年来、
いまだ、“ブルジョア指向”の実生活である。
”慶応中等部、朝日新聞、日本航空、 紀伊国屋、VOLVO、Hôtel Ritz,
18Place Vendôme”,などなどいろいろ、。
 PUNKとは程遠い寧ろ、一流志向のコンサヴァティブな生活様式である。
決して、彼女は自分のリアリティからのファッションは
最近でも作っていない。
 ”観光旅行”というある種の仕組まれた
”なりすまし”ブルジョア-リアリティからでしか
今迄も、作品を創作してこなかった。
初期の「黒の衝撃」の根幹はポルトガル旅行だった。
 ここにも「個人の夢」からの創作という視点が読める。

◉実生活としての”リアリティ”から創作を産み出す。/ 
 それに引き換え、今の若いデザイナーたちは
彼ら自身が持ち得た実生活としての”リアリティ”から創作を産み出す。
 それだけ、彼らたちのリアリティは豊富さと豊かさが
既に、あるからであろう。
ここには、“創造とリアリティ“に距離が無い。
あるのは彼らたちの選択肢多い、”リアリティ”である。
 彼ら世代の「集団の夢」が、
“創造の為の発想“そのものであると言う豊かさ。
時代を闊歩する彼らたちの世界は変革してしまった。
 ゆえに、『ファッションDJ』の登場が時代の表層に躍り立つ!

 ここでも、”川久保玲”という個人の欲望の在り方の時代観が読めるし、
もう古くなってしまったと感じる原因であろう。
特に、このブランドのメンズはデザイナーが女性であるから
余計に、その歪さがひび割れして来ている。
でも、”それでいいのだ!!CdGH.P.だから!”

◉月並みであるが、「では、今後のファッションの行方とは?」/
 嘗て、M.-フーコーが講義し論じた、
『生政治』論はこのファッションの世界にも顕在化し始めた。
 これからは益々、“ファッションにおける創造とは只単に、
“VARIATION OF ARCHIVES"でしか無くなり、
その全てが消費社会へ放り出されると
すぐさま、”単に,モノのバリエーション”の世界に成ってしまう迄の
『生-社会』の誕生である。

 それが、『BIG-DATE & ARCHIVES』の関係性であり、
『FASHION ARCHIVIST』という新職種の登場であろう。
ここでは、デザイナーという「個人の夢」と
一般消費者という「集団の夢」のパラレル化が起り、
誰でもがデザイナーに成れるというシナリオである。

 これによって、『ファッションビジネス』と
他方で、『モードビジネス』が確立されて、
これらが対峙する新たな産業構造が誕生し、
「文化は武器」と言う根幹が進化してゆくのが、
今後の巴里の強かさであり、
ファッション産業の継続化の為の未来構造であり、
これがこれからのファッションビジネスの大いなるコンテンツともなる。
 
 これは次回に論じよう。
リアリティ知らずして、ファッション学生たちに
ファッションの未来も語れない、
”昔取った杵ずか”ばかりを喋っている人たちの為と
ファッションが好きでこれからのファッションがどのようになってゆくかに
大いなる関心とそれに負けない位の不安を持っている学生諸君の為に。

 『云うまでもなく、個人にとって外的であるような
かなり多くのものが、集団にとっては内的なものである。
 個人の内側には臓器感覚、つまり病気だとか健康だという感じが
あるように、集団の内側には建築やモード、いやそれどころか、
空模様さえも含まれている』
 参考/[k1,5]:W.ベンヤミン/『パサージュ論−1』より:岩波書店刊:

長文の拝読、ありがとう。
相案相忘。

文責/平川武治:巴里ードバイー鎌倉にて、。
初稿/2013年7月15日。

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