"THE LEPLI-ARCHIVES"/#145 『相次ぐ、モードの世界のレジェントたちの”喪報”-1。』
文責/ 平川武治:
初稿/ 2016年8月30日:
追記/ 2024年10月21日:
追記:はじめに、/ 「現代のモードの巴里では、「 滑稽なTRANGEDY/悲劇」」が、」
「素晴らしいクチュリエたちとそのメゾンチーム」の存在が衰弱化してきた事によって、
巴里のモード界は、クチュールの世界からその”ブランドエクイティ”を武器にして、
”ラグジュアリー・メゾン”と称して、”ハイ・エンド プレタポルテ"をそれぞれのビジネスの
主戦力にしてしまった世界に成り下がっている(?)のが現状であろう。
その根拠の一つには、”クチュール服”にこだわるスペシャルな顧客が激減したこと。
そして、もう一つは”巴里のクチュールの黄金時代”を担っていた「フレンチ・エレガンス」を仕立て上げられる才能とセンスある素晴らしいクチュリエの新陳代謝が巧く為されず、
新たな世代交代が時流に負けてしまったためであろう。
後は、やはりこの街の”ファッション教育”がこの動向を促したであろう。
それは、元々、この巴里には、オートクチュールのお針子さん養成学校として、この組合が
運営していた”サンディカ・パリクチュール校”があり、この学校ではすべて”手縫い”による
授業方式を行っていた、歴史ある学校であった。
そして、もう一つは、1986年に創立した、”I.F.M."(現代フランス・ファッション研究所)がある。この学校は巴里のクチュールビジネスの根幹、”ラグジュアリーファッション”の為の
ビジネス・スキルを中心に教育する、ファッションビジネスエリートを育成する学校である。
ここでは「良いクリエーッションとイメージングは良いビジネスを生む。」と言うまでを根幹のスキルを教育して来た。
しかし、すっかり、ファッションビジネスが変革してしまった、現実について行くために、このフランスの両極のファッションビジネスの教育機関であった、”サンディカ校”と”I.F.M."
が2019年に合体化され、この「モードのキャピタル」の国家もサポートするこの国、唯一の
モード教育の学校になった。
この学校の”合体化”によって、この世界の「陰と陽」を熟知した世代は実質、
従来のオートクチュールでお針子さんをする若い人たちが減少化し始めたのも原因であろう。
結果、この「モードのキャピタルー巴里」の現実はビジネスでは、”N.Y."に
そのプライオリティを譲ってしまい黒人たちと、アジアン&アラビック人種たちを顧客にする「L.V.M.H.グループ」の煽りをくらって、殆どが、ヴァニティなスタイリングの
「モードのショーケース」に変貌してしまったようだ。
「”Y.S.L.、 Chanel、Dior”巴里クチュール界の御三家の跡継ぎクチュリエたちは?大丈夫だろうか」
この発端はやはり、2008年06月02日のY.S.ローランの死から始まったであろう。
続いて、2017年11月のA.アライアの急死。そして、カール・ラガフェールドの死去が2019年。
その後、2021年にはA.エルバスの死。
これらは実質、「モードのキャピタル」としての”巴里文化”である、”シャネル、Y.S.L.、Diorそれに、ランバンやA.アライアという名門クチュールメゾン”の衰退”でしかない。
以後、巴里は彼らたちの死によって確実に、「ファッション・ディレクター」と称される
スチリストたちに引き継がれられ、それぞれのメゾンが持っている”アーカイブ”を使っての
スタイリングコレクションと化し、「フレンチ・エレガンス 」が消滅し始めて、現在のような「金鍍金なモードのショーケース」の様になってしまったと言うのが僕のようなキャリアが
見続けてきた「モードのキャピタルー巴里」の寂しさである。
そして、巴里のモードの世界でも、”プレタポルテ”の誕生期の当事者たちが亡くなって逝く。
当然であるが、そんな時代を知らない、学ばない世代が”フロント・ロー”に座り始める今。
昨今の現実的ファッションを語り評価する人間は既に、時のグローヴァリズムが生み出した「ファッション・クローンビジネス」以降の人たちである。
彼女、彼らたちは、”エレガンス”を知らずともプチ・ブル気取りの”SNS・ブロガー”。
これは正に、”フレンチ・コメディ”の一つ、「 滑稽なTRANGEDY/悲劇」でしかない(?)
2)「6月25日、僕の大好きだったBill Cunninghamが亡くなった。」
巴里へ出かけ始めた’86年に、ビルは僕をスナップしてくださってから友人になった。
当時の彼の媒体誌は”DETAIL"誌だった。
実際の彼はN.Y.Times社のファッション記者であったのも、僕は後で知った。
今は、東京に住んでGQ・Japan誌をはじめとするコンデナスト・ジャパンで活躍しているGene Krellが編集していたモノクロタブロイド誌があった。
この雑誌は当時、とてもカルトなモード誌だった。僕はこの雑誌でマーク・オデュベという
もの凄い正統派で大変な才能あるデザイナーの存在も知った時期だった。
以後彼、マーク・オジュベとも友人になり、彼らたちの家にも招待されたことを思い出す。
当時の、80年代初めはパリで出会う人たちの多くはこのように、"コレクション"と”雑誌”が
それぞれをが出会い、引き寄せてくれていた、そんないい時代だった。
だから、毎シーズン、N.Y.から来ていたビルともこうして挨拶が交わし合う友であり得た。
僕は彼の生き方が好きだった。日本人以上に『謙虚さ』と『誠実さ』をすなわち、
自分の立ち居場所からの「距離感」を自覚し、認識した行動が彼の自由さととれる、
珍しい外国人だったからです。
決して、スーツ姿は見なかった、スニーカーとブルーの作業着が彼のユニフォームだった。
彼の生き方すべてに、彼の”哲学”がすなわち、
「自分がどのように生きたいか?」の根本的な「自由」が彼にはその「覚悟」と共に
行動が為されていたからでした。
ビル曰くの、「金は一番安いものだ。自由は一番高いものだ」は印象深く凄い。
少し、弱られた時期を感じても、僕には変わらぬ尊敬する遠くの友だった。
そんな僕が今、想い出しても一番嬉しく、一緒にその時を彼と共有できた幸せ感は、
巴里のサンディカの議長であったディディエ・グランバック氏が、
彼がリスペクトしているBillへ、優しさとユーモアと友情のために「フランス最高栄誉賞」を彼に贈る授与式が装飾美術館のロビーで行われた時だった。(2008年10月07日、WWD記事)
こじんまりとした会で彼を慕う人、長きの友人たちが集まっていた。
参考/「フランスがルーサーとカニンガムを表彰」
https://wwd-com.translate.goog/feature/luther-and-cunningham-honored-by-france-1830004-1586501/?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
あの時の様子を録音したテープがある。懐かしく、彼の人格と人間性が一番感じられた
ひと時だった。この”瞬間”の当事者になれたことはその後の僕のBillへの畏敬の念が
より深まった。
「どうか、おだやかに、安らかにおこゝろ、笑顔とともに。
彼方でもきっと、シャッターを押しているのでしょう、ビル。
パリの索漠喧騒なモードの会場であなたの笑顔は僕には”救いと癒し”でした。
たくさん、たくさんの笑顔、ありがとうございました。」
「実はファッションとは、日常生活の現実を生き抜くための鎧なのだ。
そして、美を求める者は、美を見つけるだろう」。/ 映画「 Bill Cunningham Story」より。
参考サイト/
*Bill Cunninghamについて、/
https://en-m-wikipedia-org.translate.goog/wiki/Bill_Cunningham_(American_photographer)?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
*「ニューヨーク歴史協会のビル・カニンガムの時代ファッション写真」
https://www-architecturaldigest-com.translate.goog/story/bill-cunningham-facades-new-york-historical-society?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
*「英画/ビル・カニングハム」
https://www-imdb-com.translate.goog/title/tt1621444/?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc&_x_tr_hist=true
「Detail」について、
*「ファッションに敏感な定期刊行物の中で流行の先駆者の詳細」/ジョン・ガブリー 著
初稿版/ 1988年3月24日午前12時(太平洋標準時)
https://www-latimes-com.translate.goog/archives/la-xpm-1988-03-24-vw-42-story.html?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
3)そして、8月25日にはあのSonia Rykielが亡くなった。
彼女は’70年始まりとともにこの街、巴里で新たなモードの世界即ち,「プレタポルテ」の
世界の誕生と牽引をした重鎮デザイナーであった。
当時の”新たな働く女性たち”へファッションで、「オシャレという武器」でバックアップした
デザイナーの一人だった。
この巴里も、「68MAY」というカルチャームーブメントから端を発した学生運動は
「女性の高学歴化」をもたらした。
「男尊女卑」が未だ、強く残っていたこの時代の巴里は、この「68MAY」運動によって
新たに女性が大学を目指すきっかけを作りこれによって、70年代から知的な女性が社会化を
果たすようになった。
そんな社会で働く女性たちのためにこの時代は多くの女性デザイナーたち、
E.カーン、A.M.ベレッタ、E.ウンガロ、M.プレモンヴィルらとA.リキエルたちが
この新しいモードの潮流、「プレタポルテ」に登場した時代だった。
ここにも僕なりの彼女たち世代が”時代と社会”へ立ち向かった「自由」とそのパワーと共に
女性らしさの新しさを強く感じるデザイナーたちであった。
自分の「生き方」を選び定め、そこへ向けての「覚悟」そのものが「自由」であることの
彼女の生き方の証だった。
「くれぐれも、安らかにご永眠ください。ありがとうございました。 合掌。」
4)コムデ・ギャルソン、川久保玲の胸中のざわめきは?
では、川久保玲はこのSonia Rykieの喪報をどのように受け取り、感じ、
どのような心の動きを行為としたのだろうか?
ある意味で、川久保玲は彼女が存在して居なければ、
現在の彼女の立ち居場所は生まれなかったはずだった生い立ち。
巴里のデザイナーに憧れて、憧れのデザイナーをコピーして頑張ってきた時代があった、
川久保玲の山本耀司に出会う前のこのブランド。
プレス担当が当たり前のようにつく小さな嘘の積み重ねは
”ブランド”を正当化させてしまうのか?
ここにも、日本のファッションビジネスが”虚飾ビジネス”である一つの根幹がある。
合掌。
文責/ 平川武治。
初稿/ 2016年8月30日。
追記/ 2024年10月21日。