とりあえず他者とは、決断するときに「肩を借りる存在」

『他者と生きる』という本を読んだ。

まず印象的なのが「狩猟採集時代」の話。最近流行った『スマホ脳』や『ファクトフルネス』といったベストセラーでは、論の根拠として、狩猟採集時代の人間はそんなことをしていなかった、という話が使われる。

個人的にも、だいぶ前のことだけど、人間は前歯と犬歯と臼歯の割合がこうだから、こういう割合で肉と野菜と穀物を食べるのがいい、と話している人がいたのを思い出す。たしかに人々が大昔の長い期間そうやっていたという話は、人間とはそういうものだ、そうあるべきだという話に持っていきやすい気がする。

この本はそこに突っ込みを入れている。「今起こっている社会問題や健康被害の原因を狩猟採集民のライフスタイルとの乖離に求める見方に批判の声が上がっている」と。過去にユートピアがあった、というのではなく、人類はいまだに変化の途上にあると考えるべきだという。

このような指摘があることを知って、少しバランスが取れた気がした。その〝説得力〟になにか違和感を持っていたからだろう。自分は過度の説得力を警戒しているのかもしれない。

この本にも書いてあるように、科学は「なぜ?」に答えるのが苦手だそうだ。でも人は「なぜ?」を求めてしまう。だからもっともらしいというか、科学的にも聞こえてしまう理由に惹かれてしまうのだろう。

そもそもこの本を読んでみたいと思ったのは、医学的な統計の話をどう考えたらいいのか、ヒントを得たかったからだ。個人的に近しい人が病気になって治療法とその副作用について考えていた時、100人中5人が影響を受けるかもしれない、という状況をどう判断したらいいかわからなかった。その5人に入るかもしれないし、入らないかもしれない。

結論からいうと、この本の中からは、こう考えるべきという明確な答えは得られなかった。でも、それが簡単にはわからないことなのだとわかっただけでも、よかったと思う。科学者でも哲学者でもわからないことなのだ。結局、人生観と照らし合わせて賭けをするしかない。医学は賭けをするためのオッズというか、補足情報を教えてくれる存在。ひとまず、そんなふうに捉えてみようと思う。

ただ、その賭けは一人でしなくてもいい。一人でできるものでもない。実際に一人で賭けに挑める人は少ない。この本にも「多くの人は自分で選択したくないと思っている」と書いてあった。わからないことを自分だけで決めて、その運命を自分だけで背負っていくのは重い。そういう直観が働くから人は選択したくないと思うのだろう。

こんな例が出てくる。心房細動になると血栓ができやすくなるから薬を飲んだほうがいい。でも薬を飲むと出血した時に血が止まりにくくなるという副作用がある。その状況に対して「長嶋さんみたいになる」と「血液サラサラ」という言葉が、人が薬を服用することへのハードルを下げた—―。

これも他人というか、社会の肩を借りて決断したいという気持ちの表れなのだろう。この本のタイトルが『他者と生きる』なのは、そういうことかと自分の中で納得した。

とりあえず自分の中で「他者」とは、決断するとき、選択するときに「肩を借りる存在」だとしてみたい。もしくは、肩を借りざるを得ない存在。

この本には、普段は一直線に進んでいると思われている時間も、何らかの「出会い」があると、その線がグネグネと蛇行して、トータルの距離が伸びて時間を長く感じる、というようなことも書いてあった。

出会いの可能性を開いておき、必要な時にちょっと肩を借りること。人とつながって人生を充実させるとはそういうことかもしれない。ネットワーキングとか聞くと踵を返したくなるけど、そのくらいの意識なら自分にも持てる気がしてきた。この本を読んで、最終的にそんなことを思ったのだった。

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