あなたに残した私の記憶

マヤ アンジェロウという人がいる。
ご存知だろうか。
2014年に86歳で亡くなった、アメリカの活動家であり、詩人であり、歌手であり、俳優をされていた女性である。
私はこの人が好きだ。

私が彼女の言葉でよく思い返すのはこれ。

人は、あなたの言ったことや したことは みんな忘れてしまう。
でも、あなたがその人をどんな気持ちにさせたかだけは忘れない

この言葉は、思い返す場面によって毎回違う意味を持って見えてくる。

単純に「自分の正しさをいくら主張しても、その行為で人に嫌な思いをさせてたら、ただの嫌な人だよな」と思う場面でも思い出す。
自分の振る舞いが気になった時に「いや、自分が思うほど相手は覚えてないだろう。それよりも私はあの人にどんな気持ちを残しただろうか」と振り返るためにも思い出す。

私の頭の中にはいつもこの言葉が雲のように形を変えながら浮かんでいて、そこに自分を照らし合わせたり、他人を照らし合わせたりしている。


そう、たとえば、理由はないけど初めて会った時に「好きだ」と思う人は過去に好きだった人達に似ているし、「なんかこいつ、ハッキリ理由はないけど嫌だな」と思う人は、過去にその人か”その人に似た人”から嫌な気分にさせられたかもしれない。

過去に何度か小さく「ん?」と思ったまま忘れていたり、「嫌だったけどまぁ、ほかの点ではそんなに悪い人ではないし、気にしないでおこう」と思ったことのある人が後になって何かやらかした時の「やっぱりね!そういう人だよね!」てなる感じもそう。

それって、相手のことを理屈や物質的なことより「感覚」で判断してるということじゃないかな。


何となく嫌・何となく好き というは、感情の記憶から判断しているのかもしれない。
人は、相手が自分に与えた「感情」で相手を記憶してるのではないか。 

となると、私は相手に、いや、みんなに何をするか何を言うかよりも、何を感じてもらうかを考えて動くべきなのでは?
つまり、例えばこうして文を書くにしても、何を書くか・どう書くかの前に、「なにを感じてもらうか」「どんな気持ちにさせるか」が見えてないといけないということか。


「とても正しくて賢いけど、とても嫌な人」もいるだろう。
「間違ってるけど、良い人だから好き」というのもあるだろう。

出来ることなら私は、相手に良い記憶を残せる部分が前に来るように自分をチューニングしたい。なるべくいつもベストなところに合わせておけるようにしたい。
まぁでも、そのチューニングが相手に合うか合わないかは、私の方では判断できないんだよな。


私は今、あなたにどんな気持ちを残してるんだろうか。

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