ダイアログ・イン・ザ・ダークへ行ってきた話 後編
さて、後半戦である。
完全なる個人的見解。徹頭徹尾「わたし」の意見。
なんとなくイベントレポっぽい前編はこちら。
後半戦は、気になった言葉の断片と、そこから思った思考の欠片たち。
あたりまえは、あたりまえじゃない。
さて、ツアー前のインスト中にアテンドのTさん(視覚障害のある方)が発したある一言が、私は実はずっと気になっていて。
「私は、暗闇の中でも動けちゃう人間なのです。
だから、たまに部屋で暗い中ひとりで過ごしていると、外から入ってきた人にびっくりされるんですよ~」
…はて。
このひとことを聞いた時にふと感じたのが、
「あぁ、そうか、Tさんが動くために、『光』は別に必要なものではないんだ」
ということ。
じゃあ、Tさんにとって、『灯りを付ける』っていう行為はどんな意味を持ってるんだろう?
自分にとって必要ではないものを、わざわざ日常生活で使用する理由って、なんだろう。
光源が0の世界は、想像できない。
というか、「これが0」がわからないから、想像できない。
だからこの発言の裏にある何かが気になる。
でも、これ、聞いていいのかな…なんていう葛藤で実は悶々としてた。
そして、この疑問の答えは、ツアーが終わった後の誰かの質問を通じて、何気ない瞬間にTさん自身の口からぽろっと得られた。
曰く、
「外から見て真っ暗なのにごそごそ物音がしたら、お隣の人はびっくりするかもしれないでしょう?」
「だから、何かしたりするときは灯りはつけるようにしています」
「でも、動かずにぼーっとするときは『消しちゃえ』ってなってます笑」
そっかぁ。
Tさんにとって、『灯り』は『他者への配慮』なのかぁ…
自分は大丈夫だけど、周りを不安にさせないため、不必要な心配を与えないために、自分には必要のない灯りを灯す。
ほんの少し、立っている場所が変わるだけで、「当たり前」も変わる。
まっくらやみが当たり前になることでの行動変容
前編で、視覚を封じられること=四感を活かす、という表現をした。
これは、失った視覚を他の感覚器でカバーする…わけではない、と私は思う。
暗闇の世界に入る前、わたしは、わたしたちは、Tさんから白杖だけを受け取った。
白杖を受け取って、そして、受け取ったことだけを報告した。
そして、暗闇の世界から帰ってきた時、わたしたちは、Tさんの手に触れて、言葉で「ありがとう」を伝えながら、白杖を返した。
これは、やさしい世界か?
くらやみに触れて、わたしたちはちょっとだけやさしくなった?
そうじゃない、と私は思う。
視覚がないのがあたりまえ。
だから、他の感覚が拡張する世界、なんじゃないかなぁ、と思う。
そうして、あたりまえが拡張する世界。
たぶん、きっと、あの場の誰も、「ガイドを務めてくれたTさんに『やさしく』しよう」と思ってあの行動を取ったわけじゃないと思う。
少なくとも私はそう。
Tさんが、自分にとっては不必要でも、他者への配慮として当たり前に「灯りをともす」ように。
私たちは、それがあたりまえだと思って、「触れて」「ありがとうを伝えた」んだと思う。
『ダイアログ』・イン・ザ・ダーク
ツアーの最後に、Tさんは言った。
「この企画の発案者の方は『これはデジタル・デトックスなんだよ』と言っていたそうです」
正直、え、そうなの?と聞きながら思っていた。
これがデジタルデトックスなら、私は参加したいなんて思わなかった。
¥12,000払ってそんなことしなくたって、私は日常的に、疲れた日はお風呂をまっくらにして入浴する、という習慣を持っているから。
デジタルデトックスくらい一人でできますが、ってな感覚だ。
ダイアログ。
対話。
私は暗闇で誰と対話するんだろう。何と対話するんだろう。
そう思ったから友人を誘って参加した。
まぁ結論から言えば、暗闇の中、ひとりで勝手に踊って勝手に遊んでいた私は、多分誰とも対話してない笑。
別に内に美なんかなくたっていいし、暗闇がととのう必要だってないって、テーマを目にした時から思ってる。
そしてその感覚は、体験後も覆らなかった。
だけど、世界は拡張された気がする。
さて、そういうわけで、何が起こるかわからないびっくり箱の暗闇。
『ダイアログ』・イン・ザ・ダーク。
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