【駄文】それはコミュニティか、それともただの個の集合体か。

自分の中で解を見つけ切らないイベントごとが多い今週。

河原町団地ツアー(仮)でのやりとりや個人的に考えたことの掃き溜め。

※最初から最後まで徹頭徹尾個人の見解であることをお伝えしておきます。

河原町団地って?

川崎市・幸区、川崎ラゾーナからバスで5分程度で着く、昭和の大団地。
建設当時、著名な建築家が手掛けたことや時代に先駆けた設備投資やデザインだったことも含めて、今でもその名をググると面白い記事がぽろぽろ出てくる。

建設から何十年も経た今でも、市営・県営・分譲の3タイプの住宅棟はそのままに、諸行無常の鐘の音…とはならず、ここにはここの「今」がある。

今回はこちらにご縁のある方からのご案内でミニツアーもどきとして中を一通り散策させてもらった。
ツアー参加者はいずれも「地域づくり」にご縁のある人たち。

ひととおりツアーを終えて、それぞれの立場から感じたこと。

アイデンティティとWILL

アイデンティティって言葉は、難しいよね。
「われ思う、ゆえに我あり」なのか、いつだって誰だって、「わたし」は集合体の中の「個」であると同時に集合には決して迎合しきらない「個」の集合知だと思う。
だけど、「ここに生まれ、ここで育ってきた」という自負に代表されるように、「この場所は自分の領域内だ」というエリアに外部から急に「支援者」が現れたら?
「支援者」という大義名分で人格否定につながるような「支援」を申し出られたら?
たまったもんじゃねぇ、のひとことで済めばまだいい笑。

「地域を支援する」といいつつ、介護保険が始まって以来過去20年を振り返っていまだに「多職種連携」が課題として挙がる業界のひとたちに果たして「地域を支援できるのか?」という逆説命題は持ち続けておいたほうがいいな、と感じる。

多職種連携の妨げになるのは、もちろん無知によるものもあるかもしれないけれど、むしろある程度知識がついてしまったことによる専門外からの領域侵害、職域の侵害に端を発することが多いんじゃないかと私個人は考えている。

だからこそ、侵害を侵害と思わないプレデターたちに蹂躙されたくはないよな、とも思う。
意思確認、合意形成がなされればいいけど、「意思がない」「特になにごともなくこのままでいい」というのもまたひとつの意思だから、「変えたい」と思ってやってくる「支援者」はその瞬間に外敵に変化する可能性がある。

だって、「変わらない」WILLと「変えたい」WILLに合意形成が成される未来って、想像しにくくない?

A地点に居を構えつつA'地域を俯瞰する

「居住者」の特性によって、見える地域は違うと思う。
普段都心に通勤している人にとって、日常のリアルはA地域には存在しなくて、休日のリアルだってA地域にはない。
そこにあるのはただただ「A」という自分の居と点在するいくつかのスポットだけ。
だとしたら、どこに居を構えようが、見えているA地域は「見よう」とした時点で必ずA'という主観の混じった地域に変化していると思う。

だから、主観で歪めすぎないために、統計データを活用するのはすごく有効だと思っている。
データは数字の集合体だけど、だからこそ歪めようのない事実もちゃんと伝えてくれるから。

この日の私にとっての河原町団地、というのは、たま~に行く「ラゾーナ川崎」の、その先のスポットだった。
川崎駅には、ラゾーナ川崎と、銀柳街方面の歓楽街エリアがあって、その2者択一である程度完結して行き止まりだと思っていた場所に急にエピソードが追加された感じ。
もちろんこれはとてもとても乱暴な例えなのだけど、ゲームでいう追加コンテンツがアップデートされたイメージに近い。
アップデートされた、と思っているのは私だけで、団地でグランドゴルフ楽しんでいる人たちにとっては私の方が新キャラなのにね笑

地域づくりは、必要か?

地域づくりね、好きだよ。
この言葉を唱えておけばとりあえず「地域に参画しています」という護符みたいな安心感があるよね。

だけど、個人的には、「地域づくり」って、主語の大きすぎる話だと思う。

「地域」って「世間」と同じで、人によって見えてる世界が違っていて、具体性がなくて、語るほどにそのズレが大きくなるから楽しくなくなっていく。
だから、一度「地域」なんて言葉は取り払っちゃって、「わたし」を主語にして、全部を肯定するところからでいいと思うんだ。

「わたし」を主語にして、自分自身だけ背負う、それでいいし、そういうていで、全肯定できる場所からスタートしたいよね、何事も、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?