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黒い猫と海を渡る夏|タペストリー交換日記 016

ゆうこさん

シアトルの夏は本当にいいねえ。青空も風も緑も、みんなすっきりして迷いがない感じ。夏こそは!って人も動物も虫も、待ってましたとばかりに夏を謳歌してるよね。

私、ついにシアトル離れることにしたでしょ?だから、今年はより一層シアトルの夏がキラキラして見えるのかもしれない。

と、同時にとにかく荷物つめの毎日。

そんななかね、もう引っ越しの歯車は完全に動いているっていうのに決心が揺らぐことは多くて。だって完全に自分で決めたことだし、誰かに言われてやることでもない。何か外からの強制力があってやることでもない。

だからこそ、自分次第でいくらでもまたどんでん返しできてしまうわけで。

そこで思うのは、人は決められたことをやることがなぜラクと感じるのか、ということなんだけど、結局「決定権」とそれに伴う「責任」を自分で追わないくていいからなんじゃないかと思うの。

だって誰かに言われてやるとか、会社に言われてやるとかであれば、文句はあってもすでに決定されているわけで、そうすると従うだけになる。それに従って幸せになろうが、不幸せになろうが、その結果への責任は自分以外の誰かが追ってくれるものだと思って(錯覚して)しまう。

そんな風に考えてるとさ、えらい決定権と責任を追ってしまったものだわと思うこともあってね。

でもね、延々と続く断捨離作業の中、自分の昔の日記やらいろいろなことを書き留めたジャーナルが出てくるのよ。

一つは2011年のもの。この頃はシアトルで結婚して、シアトルの大学での仕事を辞めて、次のステップを模索していた時。この土地で私にできることは何だろうって探していて苦しかった。ここには、「2013年には日本に帰って仕事を探す」って書いてある。

次は2015年のもの。この頃は1歳になる娘がいて、フルタイムの仕事もすごく忙しくて、加えて授乳と寝不足と家事で、とにかく必死で溺れないように泳いでるような感覚があった時。この時の日記には「2022年の東京オリンピックまでには帰る」って書いてある。

でね、ゆうこさんの質問に戻るとね、ここ最近の揺れに対して背中を押してくれる人は、「過去の私」なんだと思ったの。何年にも渡るメッセージに「そろそろだよ」と言われている気がして。そしてそんな過去の私に、自分の人生の舵取りをする覚悟への準備を、あとまだ見えない将来の可能性を指し示してもらってる。

今年書いたタペストリーの作文もそう。この自分の作文も最近よく読んでる。めげそうになると読んで、「あー、そうだったそうだった」と思って、また黒い猫が描かれた段ボールと向かい合ってる。

だから、こうやって書きとめておくのは本当に大事だと思うんだ。タペストリーの作文もそういう役割があるよね。定点観測というか、人生の駒を一生懸命進めていったとき、たまに立ち止まって、読み返しながら「ああそうだった、そんなことを考えてたわ」とか「大事なのはそれだったね」みたいに思えるもの。

ゆうこさんとこうやってタペストリーやってるのも、お互いの定点観測が出来る場になっているし、それにこれから待ってる新しいチャレンジの中、変わらず揺れたり悩んだりするときに、大事なことを確認できる場になっていくと思うの。前に進む力と元気をもらえる。一人じゃないって思える。

選んで決めて、責任を持つ。こうやって自分の人生を握る感覚が持てること自体、とても幸せなことなんだよね。その幸せを忘れないでいたいし、こういう事が出来るという感謝を持ってこれからも生きていこうと思ってるからこそ、ますますタペストリーの活動が私の中で大切になっていくと思ってるよ。

そしていつもすごくポジティブに応援してくれて、「大丈夫だよっ!」って言い続けてくれて、本当に本当にありがとう。感謝しかない(涙)。これからも海を越えた交換日記、書き続けるよ〜。

ゆうこさんにとってはさ、タペストリーはどんな存在になってる?
部活動始めてしばらく経つけれど、だからこそどんな存在になってるか知りたいな。

お返事まってるよー-。

けい

追伸:8歳の娘たちの文通も、本当に実現するといいね。二世代グローバル交換日記になったりして!

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