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私が抱く生きる手触り

私が抱く生きる手触り。

ふと、
Xや、facebook、Instagram等。
リアルでも、そうだ。

多くのモノや言葉に触れる機会が多くなってきた今日。

心に感じる映像、物体、言葉。

触れる度に、
私は私を形造っていく。
を感じている。

何が正解なんだと、
自問自答し、
喜び、憂い、悲しんだり、怒ったり、泣いたり等。

この感情を現す言葉を探し出す。

私が感じる手触りを現す言葉を。

言葉の数が増えれば増えるほど、
何故か感情から遠く離れた言葉が生まれてくる。

感情から離れた言葉とは?

端的に言えば、
表面的な言い表しではなく。浅くもしくは浅い言葉ではない。

一呼吸、放つ言葉の意味を考える時間(紡ごうとする行為)を挟んで、生まれてくる言葉。

だからと言って、
浅くではなく深い言葉が「正」という事が言いたいのではない。

浅いからこそ、
受け取りやすいがある。
他方で意図とは違う受け取り方をされたりもする。

深さがある場合、
理解に及ぶまで時間がどうしてもかかる。
言っている事が難しいと言えるかな。

相手の立ち位置や、目線によって、
私が投じる言葉が、
相手にとってキャッチしやすかボールとなるのか、暴投となってしまうのかなのだ。

これは投げてみないと判らない。
他者(相手)を交えさないと自分の位置も判らないってことかな。

おっと、
私の生きる手触りの語りから内容が逸れ始めている。

つまり、
他者(相手)との関与によって生じる事柄によって私が生きていることの感覚、手触りが、どの様なモノなのかが初めて解ることに繋がる。

相手の理解に判断軸を置くのではなく、自分(私)の内省によって手触りの感覚を掴むことに成りえるのだろうと。

今の私は思考している。
そういう認識でいる。というのが読まれている人に理解できるかな。

この様に考えさせて(思考させて)もらえるのは、今日に至るまでに関わらせ貰えた人達のおかげである。

良いも悪いも、
きっと私にとって意味のある事「だった」から。

意味があったかは、
この先(未来)で知ることになるのだろう。

そして、

知ったときには既に過去でしかなく。

今という時は、
在りのままに事態に触れるしかないのだということ。触れた感触を、感情を認めていくことなのだろうなぁ。

今日も生きている。
おかげ様です。今日1日に感謝🙏✨
関わって頂いている人たちに感謝🙏✨

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