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ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』上巻、中央公論社、1991年、「日本語版への序文」まとめ

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本書と著者について

この書籍の日本語版は1981年にTBSブリタニカから出版され、今年2019年で40年近くが経とうとしている。それにもかかわらず、未だに多くの日本語版が各出版社から出されていることは、本書が名著たる所以かもしれない。(ちなみに今回私が読んでいるのは91年中央公論社出版のものである)

著者、ジョン・ダワーは日本文化、近現代日本史、日米関係の研究者であり、マサチューセッツ工科大学の名誉教授としても知られる。なによりも、彼の代表著作である戦後日本を描いた『敗北を抱きしめて』は多くの人が知るところであろう。

「今」本書を読む意味

本書を通して吉田茂について振り返ることは、現在の日本の状況、特に国際社会における日本の立場がどう形作られたのかを理解する手がかりになるとともに、「対米依存」と時に言われる日本外交を相対化して観る視点を得ることにもつながるだろう。

また、ジョン・ダワーというアメリカ人が書いた伝記を読むことで、普段日本で触れることの少ない欧米人の歴史観を知る手がかりにもなる。

これは著者本人が日本人読者に対し、すでに日本で知られている知識を改めて学び直すというだけでなく、以下のように意義を見出すことを求めたことからも言えることである。

欧米の資料からとり入れた知識とか、解釈が一定の構成をもって提供されていることとか、また本書はある面で一人の欧米の歴史家が他の欧米人に日本について語りかけている見本として読むことができるという事実そのものなどといったほかの要素に、大きな意味を見いだされることを望むばかりである。(本書、11、12頁)


戦前と戦後の「断絶」と「連続」

これと関連するものとして、この序文には欧米人の歴史観を表す興味深い叙述がある。

この書籍の日本語版は上下巻に分かれているが、英語版の原著では一冊本として出版された。著者は、これは欧米の日本に対する「定型概念」から離れるためのものであると述べたのである。

これはどういうことかというと、著者は、欧米を中心とする国際社会は戦後日本を軍国主義から「生まれ変わった」存在として許し、受け入れたため、日本を「戦前」と「戦後」に分けて考えがちだという点を指摘しているのである。

これはいわば歴史の「連続性」と「非連続性(断絶)」の問題である。

歴史学の世界では、この「戦前・戦後」の連続性に関する議論だけでなく、国際協調を希求したとされる1920年代と中国大陸への侵略を本格化したとされる満州事変以降の「連続性」と「非連続性」はしばしば論争点となる。

つまり、これはなにも欧米人に限ったことではなく、日本人の歴史観でも同じことが言えるであろう。

しかし、著者は日本語版が上下巻二冊で刊行されるにもかかわらず、これを問題視していない。

著者はその理由を「言語と歴史意識の相違」(13頁)に求めている。
つまり、日本人は天皇の治世を一つの時間区分として捉えているということである。著者が「日本語では、昭和年代という図示的な概念が一九四五年以前の時期とそれ以後の時期のかけ橋となっている。」(14頁)が述べるように、日本人は1945年以前の日本と以後の日本の「連続性」をなんらかの形で意識しているとされるわけだが、欧米人のうちこの感覚を理解できる人はまれなのである。


このように著者は、欧米人と日本人の歴史観の違いに細心の注意を払っているわけだが、本書において「第二次世界大戦後の歴史過程をどう評価するか、またその過程は1945年以前の時期にどうつながるか」という普遍的な問題を提起したものでもある(15頁)。

つまり、本書はなぜ米国占領統治による「新日本」的な改革の直後に吉田茂という「保守的」な人物が政権をとったのか、という疑問に象徴される戦後日本の「逆説」に対する回答を試みる。

本書では、戦後日本を「民主主義革命」として一面的に理解するだけでなく、米軍占領下の改革の「行きすぎを是正」しようとする保守勢力のキーマンとして吉田を捉える。
そして、変化する米国の日本占領方針や、保守勢力が進めた「逆コース」に抵抗した「民衆の民主主義への希求の潮流」も含めた、戦後日本の諸相を浮かび上がらせるのである。

このことを理解するためには、前述の「歴史の連続性」に着目し、戦前から話を起こしていかねばならない。

次回は、本書の第一章「明治の青年紳士」から、若き日の吉田を見ていきたい。

ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』第一章まとめ|桃李もも @taolimomosumomo|note(ノート)https://note.mu/taoli_momosumomo/n/nb6d7205d5973

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